1.4. 経済力1
農業(直轄地の割合・年貢収入・新田開発)
漁業
鉱業(金山・銀山・銅山・まとめ)
※※※※
太字を読めば要約可能
考察根拠は本文を参照
文末に引用・参考文献名も記載
大名の格を示す指標として、貫高制と石高制が用いられる。この内、安土桃山~江戸時代を通して全国統一規格となったのは石高制である。これはその土地の農業生産力を示しており、1石は1人の人間が1年間に消費する食糧と同等とみなされていた。つまり、100万石の大名は100万人分の食料生産力を持つ土地を保有していた。 このようにあくまで石高は土地の生産力を示す指標であり、大名の実際の経済力を示す指標ではない。実際の経済力は家臣への俸禄(主に知行=土地)を除いた直轄領から得られる年貢と鉱山経営、貿易などの総計からなる。そして、これら生産力の他にこれを消費する人口が大名の経済力を示す指標となる。 このページでは農業、漁業、鉱業が与える大名の経済力について述べる。 1.4.1. 農業 大名は自らの身代を知行として家臣に分け与えてこれを養ってきた。このため、大名家経営に使用できる農業生産高は直轄領のみとなる(家臣団から上納として徴収する大名もいる)。 直轄地の割合 豊臣政権下の①長曽我部氏(土佐)、②蒲生氏(陸奥会津)、③宇喜多氏(備前)、④福島氏(安芸)の直轄領と家臣団の石高割合について表-1に示す。
この数値は兵農分離前(①)、兵農分離後(②~④)、土着大名(①、③)、新大名(②、④)にグループ分けできる。 まず、兵農分離だが、①の長曽我部氏は四国征伐の結果、讃岐、阿波、伊予の所領を失い、これらの家臣団を全て土佐で養わなければならず、領国経営的に苦しい時代だった。一方で他家は兵農分離が進み、大名への中央集権が進んだ時代である。 次の土着大名と新大名だが、土着大名は一般的に家臣団(豪族)の力が強く、兵農分離を進めにくい。一方で新大名は最初から秩序を築くことができる(特に蒲生氏と福島氏は加増転封)。 このため、兵農分離の結果を宇喜多氏の例がよく示しており、兵農分離後は約25%の直轄領を保持していたと推察される。 年貢収入 大名は年貢と言う形で農民から徴収し、収入源としていた。その割合は「5公5民」もしくは「4公6民」を採用していた。先の宇喜多氏の例を用いて、4公6民の場合の農業生産高と税収を表-2に示す。この表から農業生産高による大名家経営費は全農業生産高の11%ほどしかないことが分かる。ただし、兵力の捻出、その戦力の維持に関しては家臣団の軍勢は家臣団が負担するので、11%から出るのは本隊軍勢費と国家事業費だけである。
新田開発 大名家の収入増加に最も寄与するのは新田開発である。新田開発例を土佐藩(山内氏)と仙台藩(伊達氏)で示す(表-3)。両者の増え幅の違いは農地に適した土地の有無と考えられる(仙台藩には広大な仙台平野が存在)。 これは約80年後の数値であり、20年程度では通常は10%増、農業適格地保有の場合は15%増と考える。
1.4.2. 漁業 戦国時代には沿岸漁業はもちろん、沖合漁業も行われていた。ここでは沿岸・沖合漁業における漁獲高を石高換算する。 農林水産省による1960~2006年までの沿岸・沖合漁業の平均年間漁獲高は1兆10億5,000万円である。同年の登録海面漁港数は2172港で(水産庁)、1港当たりの単純漁獲高は4億6,090万円となる。ただし、、戦国時代は技術的に劣るため、漁獲量はもっと少ないと考えられる(一方、水産資源は豊富)。これらを踏まえ、単純に能力を20 %とした場合、1港当たりの漁獲高は9,220万円、石高換算で1,540石となる。 漁業は基本的に地産地消で大名の収入になるほどの漁獲高を誇る漁港は限られていたと考えられる。その場合、小さな漁港からも持ち寄られるため、平均以上の能力を持つ。 このため、ここでは地域主要1漁港当たり1億800万円、1,800石と仮定する。これらの港は現在の特定第3漁港および第3漁港だったと推定する(開港年次により一部欠)。 1.4.3. 鉱業 戦国時代から江戸時代にかけて鉱山開発が盛んに行われた。これらの経営は主に大名直轄もしくは幕府直轄であり、その収入は直轄領農業生産高と共に大名家経営に使われた。ここでは金銀銅鉱山の石高換算の能力について考察する。 金銀鉱山 渡辺(2004)による日本の10大金銀鉱山の内、戦国もしくは江戸時代から採掘されていた5鉱山を表-4に示す。佐渡金山が3位以下を大きく離し、銀産出量でもずば抜けていることが分かる(ただし、佐渡金山群の合計値)。
表-4の産出量は近代化操業の期間も含んでいるため、戦国・江戸時代の能力とは言えない。 代表的な金鉱山である佐渡金山は江戸時代の全盛期には年間400 kgの金を産出した。その後、衰退に向かったが、1986年に近代化操業で生まれ変わり、年間400 kgレベルまで回復したという。 佐渡金山の金産出量78 tは江戸時代と近代化時代の総計で、江戸時代単体のデータはない。 このため、ざっくりと旧来採掘時代と近代化採掘時代の産出量を同量として旧来採掘時代の年間産出量を計算した(表-5)。
近代化採掘時代の平均値が419.4 kgと年間400 kgに回復したという実績と近似するため、この推定方法は事実と調和的であると考える。この方法(新旧採掘量同量)を他4鉱山にも適用した(表-6)。
主要金銀鉱山の年間金産出量は約75 kgと考えられる(5鉱山の単純平均)。これは産出量不明だが、当時有数の鉱山であった甲斐黒川金山・湯之奥金山、伊豆土肥金山も同程度であったと考える。 また、銀については大須・鶴子銀山を保有した佐渡金山群を除く4金山は金産出量に対し、5倍の銀産出量を持つ(単純平均)。 これを適用し、主要金銀鉱山の銀産出量を約355 kgと置いた。つまり、主要金銀鉱山は金75 kg/y、銀355 kg/yを産し、その生産高は5億5,250万円、石高換算で9,200石と推察される。 中規模金銀鉱山 中規模金銀鉱山である大葛金山(出羽比内)は江戸末期に年間19~26 kgの灰吹金を生産していた(斎藤, 2005)。さらに大ヶ生金山(陸奥盛岡)は最盛期に年間80 kg(細川, 1988)、玉山金山(陸奥気仙)は平安時代に年々4貫(15 kg)を朝貢、中瀬金山(但馬)は127両(4.76 kg)を運上運上していた。 大ヶ生金山の平時産出量を最盛期の半分と見た場合の、4金山単純平均は年間20 kg、銀産出量を主要金銀鉱山と同じく金産出量の5倍とした場合、約100 kg。 これらから中規模金銀鉱山の年間産出量は金20 kg、銀100 kgとし、生産高1億5,000万円、石高換算で2,500石となる。 銀鉱山 超大規模銀山である石見銀山群(石見)、主要銀鉱山である生野(但馬)、軽井沢(陸奥河沼)、多田(摂津)、院内(出羽雄勝)の年間産出量と石高換算を表-7に示す。石見銀山群は別格の152億、25万3,330石、主要銀鉱山は生産高22億5,500万円、石高換算で3万7,000石の能力があったと考えられる。
中規模銀鉱山 中規模銀鉱山は合わせて銅・鉛・亜鉛・錫などの副産物も採掘していた。上田(越後、白峯鉱山含む)、因幡(因幡)、半田(陸奥伊達)、対馬(対馬)から中規模銀鉱山の能力を考察した(表-7)。これらの平均から、中規模銀鉱山は年間700 kg、生産高2億8,000万円、石高換算で4,670石の能力があったと考えられる。
銅鉱山 江戸初期の日本は年間6,000 tもの銅を生産し、おそらく世界一の座に君臨していた(酒匂, 2006)。しかし、実際に銅生産量が増加したのは鎌倉時代以降である(新井, 1999)。主要生産地は足尾(下野)、別子(伊予)の2大銅山、東北地方(出羽・陸奥)の主要鉱山群である。 大銅山の江戸時代年間平均生産量は足尾812 t、別子558.8 tである(金属資源開発調査企画グループ, 2005)。また、東北地方の生産量推移と1鉱山相当の生産量を表-8に示す。 このため、主要銅鉱山の1鉱山当たりの年間生産量は約100 t、生産高2億4,000万円、石高換算で4,000石の能力を持つと仮定する。
中規模銅鉱山 中規模銅鉱山の例として長登(長門)、持倉(越後)の例を挙げる。長登は年間1万斤(長登銅山跡 大仏ミュージアムホームページ)、持倉は約700貫(※1)とある。 このため、中規模銅鉱山の能力として年間4 tとすると、生産高960万円、石高換算で160石となる。 ※1 ミックンのつぶやき「持倉鉱山 関連記事」より。 鉱山経営まとめ 表-9にこれまでの考察結果をまとめた。石高換算の結果、石見銀山群>主要銀山>佐渡金山群>足尾・別子銅山>主要金山>中規模銀山>主要銅山>中規模金山>中規模銅山の順となる。如何に日本が銀に富んでいたかが分かる。
引用文献: 新井宏(1999):金属を通して歴史を観る(4)金属生産量の歴史(3)金銀, BOUNDARY(コンパス社).15(3), 35-39. Garwin, S., Hall, R. and Watanabe, Y(2005):Tectonic Setting, geology and gold and copper mineralization in Cenozoic magmatic arcs of southeast Asia and the west Pacific, Economic Geology 100 th Anniversary Volume, Society of Economic Geologists, 891-930. 細川了(1988):大ケ生金山の歩み, 大ケ生金山里づくり実行委員会. 金属資源開発調査企画グループ(2005):我が国の銅の需要状況の歴史と変遷, 金属資源レポート, 3, 434-454. 小葉田淳(1968):日本鉱山史の研究, 岩波書店. 小葉田淳(1986):続 日本鉱山史の研究, 岩波書店. 酒匂幸男(2006):銅製煉技術の系統化調査, 国立科学博物館. 齋藤實則(2005):あきた鉱山盛衰史, 秋田魁新報社. 瀬野精一郎(1972):長崎県の歴史, 山川出版社. 渡辺寧(2004):生きている九州-浅熱水性金鉱床生成区の変遷, 地質ニュース, 599, 31-39. 湯之谷村商工観光課(?):銀山平 伝説と忠実. 参考ホームページ: 農林水産省 漁業産出額 長期累年. 水産庁 漁港港勢の概要. 生野銀山公式ホームページ. 金属の歴史13(江戸時代 2) 長登銅山跡大仏ミュージアム(http://mikkun.yu-nagi.com/07min/009_motikura-2.html |