せ号作戦 -1
せ号作戦。 これは忠実において大日本帝国陸軍がドーリットル空襲を受けて急遽実施した中国浙江省方面の敵航空基地覆滅を企図した作戦である。 この作戦は航空基地を陸路で破壊するという驚くべき作戦骨子であり、一定の戦果を収めた。しかし、大陸戦略の大筋から外れた作戦であったため、日本軍の作戦後は占領することなく後退。 米軍の援助を受けた中国軍が盛り返す期間を与えてしまった。 だが、この物語ではドーリットル攻撃隊は日本上空で全滅。 中国大陸に1機たりとも着陸しなかったため、この作戦は実行されなかった。 結果、本来の戦略に沿った、大作戦が実施されることとなる。 それが、この物語の「せ号作戦」である。 武隼時賢side 「―――北支那方面軍と支那派遣軍の共同作戦、か・・・・」 1942年5月12日、南京。 ここで武隼時賢と畑俊六は作戦図面を見ながら話していた。 周囲には参謀が並び、作戦開始前の緊張感に包まれている。 「欧州で複数の軍団が共同作戦に出るのは普通ですよ。しっかりしてください、総司令官殿」 時賢のからかいに、緊張で顔を強ばらせていた畑はため息をついた。 「編制の上では支那派遣軍は総軍、北支那方面軍はその隷下にある方面軍だったな」 ため息をついた後、なにやらすっきりした顔をした畑が言う。 「ならば、これは欧州戦線における局所戦レベルという訳か」 「その通りです。栄えある日本陸軍が達成できぬ作戦のはずがありません」 力強く言い放った時賢の視線が地図に降りる。 投入される戦力は北支那軍所属の2軍(第1軍・第12軍)ならび支那派遣軍直轄の第11軍だった。 「陸軍中央を突っつき、どうにか戦力を充足できたな」 「3単位制師団の本格戦力化・・・・。まさかこんなに早く実現できるとは、驚きです」 「中央では進めていたみたいだがな」 今回の作戦では、陸軍は編制上の大きな変化点がある。 元々、日本陸軍の1個師団は2個旅団4個歩兵連隊制(通称、4単位制師団)を採用していた。しかし、国共内戦に介入した結果、忠実よりも派遣が小規模だったのに関わらず、従来の師団では対応できないほど戦線が拡大する。 このため、1937年より旅団を廃止して1個師団歩兵3個連隊制(通称、3単位制師団)に移行した。 しかし、その目的は後方の治安維持目的であり、元々の師団からすれば戦力が低下する。 それにも拘わらず、正規軍事作戦に投入され、思わぬ損害や作戦目標未達などが見受けられたのだ。 畑は徐州会戦、武漢作戦の経験でこれを体験しており、陸軍大臣時代に改革を進めた。 それは騎兵を捜索連隊に置き換え、戦車大隊も常設するなどの機械化を進めるというものである。 畑は砲兵出身であり、戦車に対しても造詣が深かった。 また、密かに知り合っていた時賢の助言もあり、改定から4年後には3個単位制師団は"警備用"の看板を外し、これが正規編制となる。 構成部隊は3個歩兵連隊、1個砲兵連隊、1個戦車大隊、1個捜索連隊、1個工兵連隊、1個輜重兵連隊、司令部付を含む約2万2,000名となった。 今回の作戦部隊の師団は、その全てがこの編制であり、これまでの中国戦線を戦った師団とは比べものにならないくらい近代化している。 これはひとえに国共内介入を日中全面戦争に発展させず、近代化に努めた成果だった。 因みに当初の目的である警備・治安維持部隊は独立混成旅団が担っている。 「あ、あの、畑総司令官殿?」 後宮総参謀長がやや困ったような声を畑にかけた。 「おう、すまん。ぅうんっ。―――して、各軍からの報告は?」 「『準備完了』とのことです」 北支那方面軍は開封と済南周辺に第1軍を、済南と徐州周辺に第12軍を配置している。 その隙間を埋めるように満州国軍第1軍、朝鮮自治国軍第1軍を配備していた。 誰がどう見ても分かる、作戦前の戦闘配置だ。 その戦力は第1軍に3個師団、3個独立混成旅団、第12軍に1個師団、3個独立混成旅団、さらに方面軍直轄として戦車第1師団が第1軍の後方に待機している。 投入兵力は約20万、戦車550輌。 一方、支那派遣軍は宜昌-武昌-南昌に第11軍が展開していた。 こちらは臨戦態勢にあるが、作戦前行動は取っていない。 それでも第11軍に6個師団、2個独立混成旅団、さらに武昌には秘密裏に移動した戦車第2師団がいた。 戦力は約15万、戦車630輌。 これに作戦予備として南京の第13軍4個師団、5個独立混成旅団、約12万が待機していた。 作戦投入戦力約35万、戦車1,180輌。 予備戦力約12万、戦車240輌。 総戦力約47万、戦車1,420輌。 一見の戦力は徐州作戦並み、実質は武漢作戦並みであり、予備まで含むと中国戦線では最大規模の作戦だった。 (それも、奇襲ではなく、真正面からの、か) 太平洋戦争の第一作戦が一段落し、蒋介石南京脱出ならび第三次国共合作から5ヶ月。 中国戦線関係者の誰もが、そろそろ日本軍の攻勢を予想していた。 日中戦争のもう一人の当事者――中国軍もそうである。 事実、作戦前偵察において、九七司偵が鄭州周辺に集結する敵軍を確認していた。 鄭州は殷の首都であり、隴海線と京広線が位置する南北大動脈の交差点である。 日本軍の作戦目標としては十分だった。 (60万、か・・・・) 展開する国共連合軍は総勢60万。 民兵に毛が生えたような戦力だが、その数は驚異的だ。 (作戦の成否は、2個戦車師団と―――) 「―――しかし武隼、海軍の協力を取り付けるとは恐ろしいな」 思考の海に沈みかけた時賢を、畑の声が引き戻した。 「さすがに陸軍航空隊の拡張は無理だったからな」 「・・・・海軍も貴重な実戦経験を得る機会を欲していましたからね。連絡すればすぐに飛びつきましたよ」 「その連絡のつてを持っていることが驚きなんだがな」 畑が苦笑するが、陸軍大学ではなく、防衛大学を出ている人間からすればこのようなつては驚くようなことではない。 「第一作戦で海軍の渡洋爆撃隊は大戦果を上げた一方で、被害が大きく出ました」 数的主力である九六陸攻だけでなく、その防御力向上を意識して開発された一式陸攻までも多く撃墜されたのだ。 尤も一式陸攻は長大な航続距離のために防御力を犠牲にした部分もあるのだが。 「早期戦力回復を目指す海軍は、比較的安全な中国の空で訓練を積む、か・・・・」 「爆弾を投下する実戦付ですがね」 時賢は夏口に展開する陸攻隊を示す駒を眺める。 「戦闘機80機、陸攻60機、陸爆36機。予備機を含んで計200機」 隊長以外全ては初陣である。 「しかし、戦闘機全てが零戦とはな」 「量産体制に移行してからの生産数は目を見張るものがありますから」 零式艦上戦闘機は三菱、中島の工場だけでなく、海軍航空廠の工場でも量産開発していた。 元々、政府は同一航空機を輪番で航空機会社に生産させてきた歴史がある。 工業規格の統一もあり、これらの量産ノウハウは持っているのだった。 「副総参謀長、こちらの航空隊は?」 「はっ。南方の第3飛行師団、北方の第2飛行師団がともに充足しております!」 「軍が優先的に配備してくれたからな」 日本陸軍航空隊は1個飛行戦隊を戦闘基本単位とする。 その戦力は戦闘機36機もしくは他機種27機で構成されていた。 これを2ないし3個で飛行団を、飛行団2個以上を集めて飛行師団を形成する。 ただし、基本的にはどれも3個単位制である。 つまり、飛行師団は約300機が作戦機だった。 2個飛行師団が投入されるこの作戦、投入機は海軍と併せると約800機。 超大規模集団である。 「他に満州国軍、朝鮮自治国軍の航空隊も参加しています」 「大作戦だな」 畑は満足そうに呟く。 今この時、畑は日本陸軍の主力を握っているのだ。 「爆撃機だけで敵軍を撃破できるな」 「中国空軍などないに等しいからな」 「いっそこのまま重慶を・・・・ッ」 畑の呟きに、居並んだ参謀は口々に楽観意見を述べた。 「いえ、そう簡単にいきません」 「「「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」」」 その意見をばっさり切った時賢に、参謀たちは不満そうな視線を向ける。しかし、彼らを手で制し、畑がからかうように言った。 「貴様が手塩にかけた戦車師団の手柄が欲しいのか?」 幕僚たちが思ったのは、まさにそのことであった。 「いえ、航空隊の攻撃は確かに苛烈です。しかし、戦略的に見て、点での攻撃でしかありません」 一回当たりの爆弾投下量は絶大だ。しかし、反復攻撃には時間がかかる。 「敵軍を制圧するには陸上戦力の展開が不可欠です」 時賢は航空隊の他に展開する陸上部隊の駒を眺めた後、居並ぶ参謀に向かって言った。 「そして、作戦成功には幕僚の協力が不可欠だ」 そう言って頭を下げた時賢に、参謀たちが鼻白む。 「はっはっは! 作戦発起から立案まで参謀としてのお鉢を奪われたが、確かにここから一人で指揮は不可能だな」 畑が呵々大笑した。 彼が言ったのは参謀たちが思っていたことなのである。 突然やってきて、大作戦の計画を立てた時賢に嫉妬していたのだ。 (さっきから畑さんが参謀の言葉を代弁しているが・・・・) それは畑が参謀の気持ちをよく理解しているということ。 つまり、数年前まであった参謀による開戦謀略はありあえないということを意味している。 「総司令官殿」 「・・・・分かった」 総参謀長である後宮淳陸軍中将が言葉少なに促した。 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 畑が参謀たちを見回す。 彼らの肩に、陸軍約30万の命が乗っている。 「さあ、やろうか・・・・」 それは畑の肩にも乗っていた。 「作戦開始!」 「「「作戦開始!」」」 その重さに潰されることなく、彼らは日本の運命を賭けた大作戦の開始を発令した。 1942年5月12日午前6時に発令された攻撃命令に従い、日本軍が動き出した。 最初に動いたのは航空部隊である。 北支那方面軍の移動に釣られて展開していた中国軍の上空に爆弾をばらまいた。 この時に活躍したのは九九式双発軽爆撃機だった。 急降下爆撃が可能であり、敵軍の防衛線に配置された野戦砲陣地を攻撃する。 出撃記録からその延べ数は1,000機にも達し、日本軍史上最大の戦術空爆を実施。 作戦機200程度しかなかった中国空軍は作戦初日で壊滅した。 結果、中国軍は前線部隊が壊滅的打撃を受けるだけでなく、後方との連絡線が遮断される。 さらに日本海軍の足長攻撃隊は容赦なく後方策源地を攻撃していた。 作戦開始3日で大混乱に陥った中国軍に追い打ちをかけるように、日本陸軍の地上部隊(第1軍・第12軍)が南下を開始する。 中国軍の崩壊した第一防衛線を紙屑のように突破し、猛然と進軍した。だが、ゲリラを注意した進撃は決して速くはない。 これまでの経験から包囲される前に中国軍が戦場を脱することは可能だった。しかし、国共両軍にはそれができない理由がある。 「「死守だ!」」 それをよく分かっている蒋介石、毛沢東は無駄と分かりつつもそう命じざるを得なかった。 理由は国際情勢にある。 連合国と枢軸国の主な戦線は欧州東部戦線、欧州西部戦線、太平洋戦線、中国戦線だった。 欧州東部戦線(独ソ戦)はソ連の反攻作戦がとん挫。 欧州西部戦線は欧州大陸から弾き飛ばされて反撃の糸口が見えていない。 太平洋戦線は日本軍によって米英軍が壊滅的打撃を受けて敗北。 このように主要戦線で負けが込んでいるのだ。 ここで中国戦線までも敗北するようなことがあっては、中立を表明している他の国々が枢軸国に立って参戦する可能性があった。 蒋介石side (―――簡単に負けるわけにはいかないのだ) 蒋介石は重慶のデスクで拳を握りしめる。 国民党軍は2戦区、共産党軍も主力を投入していた。 総勢60万に達する戦力は、国共連合軍の主力と言っていい。 対する日本軍は北支那方面軍とその同盟軍だけだ。 20万を数えるだろうが、数の上では3分の1である。 (補給を受け続けるためにも負けるわけにはいかないのだ) 蒋介石が南京を脱出して重慶に移動したのは、米英の勝利を確信したことの他にその援助を期待したためである。 日本軍の戦力を引き受け、連合軍の最終的な勝利に貢献する。そして、その後に支援を受けて共産党軍を撃破するのだ。 だが、圧倒的戦力差を得た主力軍がなすすべもなく敗れ去ったならば、連合軍は苦戦するビルマ戦線からの援助を打ち切るだろう。 (この戦い、国民党の将来に繋がる大事な一戦だ・・・・ッ) 「―――総統! 前線より矢のような援軍要請です!」 「戦況を説明せんか!」 慌ただしいノックの後に入ってきた副官を怒鳴りつける。 「も、申し訳ありません」 「いや、すまん」 自分でも焦っていたことを恥じたのか、咳払いと共に居住まいを正した。 「日本軍東部軍は鄭州を目指しておりましたが、第二次防衛線にて進撃阻止に成功。西部軍も洛陽手前でどうにか押しとどめました」 「ほぉ?」 思わぬ朗報に蒋介石は目を細める。 「原因は?」 「・・・・共産党軍による後方ゲリラ攻撃のための補給線確保が影響しているようです」 「・・・・これまでの日本軍ならば構わず突撃してきたが、さすがに学んだということか」 後方を疎かにし、攻撃目標を占領した時には補給に困るのが日本軍だった。だが、後方整理をして補給路確保に努めながら進軍しているとなると、手ごわくなる。 これまでは補給限界に達して攻勢を停止していたのだ。 「しかし、後方に戦力を割いた分、前線の戦力が減少します」 「その結果、第二次防衛線で食い止めた、か・・・・」 「その通りです」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 敵の戦略が変わっても、やはり兵力差に溺れることは変わらないようだ。 「敵正面戦力が減少しているのか・・・・」 蒋介石は机の上に置かれた地図を眺める。 そこには前日までの部隊配置が書かれていた。 「・・・・こちらの後方予備戦力を前線に集中、敵前線部隊を一気に叩き潰せ」 「は・・・・? よろしいので?」 後方予備部隊も空爆の影響で再編中だ。 「いい。ここが勝負どころだ」 「・・・・分かりました」 こうして、国民党軍は第二次防衛線に戦力を集中することを決する。 作戦開始から実に7日後のことであった。 この当時の中国国共連合軍の戦力は、まさに兵力だけであった。 大半が雑多な外国製兵器ならび鹵獲兵器で武装し、兵科ごとの連携はもちろん、同一部隊の中でも連携できないのだ。 それでも日本軍と戦えているのは、その大兵力を保有しているからに他ならない。 どんなに鍛えた兵でも、相手できるのは2、3人が限度である。 国共連合軍が第一防衛線に貼り付けた兵力は15万程度。 それが敗北し、すでに8万人近い死傷者・行方不明者を出していた。 そして、第二次防衛線は20万程度。 ここで5万にも及ぶ損害を出しつつもどうにか食い止めたのだ。 因みに共産党軍のゲリラ部隊は全部で2万人 この時点で予備兵力は25万。 これは主に南方に展開し、武昌周辺に展開する日本軍第13軍の行動を見張っていた。 蒋介石はそれを動かすというのだ。 当然、蒋介石はその危険性を理解していた。しかし、第13軍は南京から突き出た橋頭堡を守るために必死である。 大規模攻勢に出る余裕はないと判断した。 もちろん、第13軍の周囲に展開している他の部隊を牽制に動かしている。 予備兵力25万のうち、8万ほどを留守に残して17万が北上を開始。 数日中に約39万が北支那方面軍正面に展開することになった。 一方、北支那方面軍も作戦前とは正面戦力が異なっている。 蒋介石側が東部軍と呼称していた第12軍と満州軍第1軍、朝鮮軍第1軍である。 この内、攻撃正面に展開しているのは第12軍1個師団と他国軍団の8万人だった。 3個独立混成旅団の2万弱は後方に展開し、補給路確保ならびゲリラ掃討に注力している。 また、同じく西部軍と称される第1軍は3個師団を中心とした約6万人が攻撃正面で、東部軍と同じく3個独立混成旅団がゲリラ対策に当たっていた。 戦車第1師団は作戦開始位置から動いていない。 つまり、数日後には両軍の前線部隊は日本軍14万、国共連合軍39万が干戈交えることとなる。 国共連合軍は日本軍の2~3倍の兵力差を持って第二次防衛線に立ちはだかるのだ。 勝てないかもしれないが、相応の打撃を与えられる。 蒋介石はもちろん、毛沢東もそう考えていた。 「―――九七司偵より入電!」 1942年5月20日。 南京の司令部に、九七式司令偵察機からの報告が入った。 「敵予備兵力の北上を確認! 数、方向は―――」 電信員の言葉を地図に反映するべく、参謀たちが駒を手に走り回る。 やがて完成したのは、敵主力ならび予備戦力の大半が北方前線に集結しつつある地図だった。 数日後に展開するであろう敵戦力は約四〇万である。 「北支那方面軍へ連絡しろ!」 総参謀長の後宮が指示する中、畑はじっくりと地図を見ていた。 「海軍にも知らせろ。敵が集まった瞬間、まずは空爆で叩く」 南方の第3飛行師団や海軍航空隊は作戦開始当初に敵軍を空爆している。しかし、陸上部隊が本格的に行動を開始してからは、重慶から行われる嫌がらせ程度の空爆に対応していた。 これは支那派遣軍が今回の攻勢に関与していないと見せるためのフェイクだ。 当然、支那派遣軍から命令があり次第、作戦行動に移れる態勢にあった。 「総司令官殿・・・・」 畑の命令に後宮が判断を仰ぐように顔を見遣る。 「敵は釣り出された」 畑はここにいない参謀の顔を思い浮かべ、すぐに頭を振って参謀たちを見回した。 「作戦第二段階を始めるとしよう」 畑の言葉に参謀たちは大きく頷き、待機している第二作戦部隊へ連絡を取り出す。 (やはり"武隼"は末恐ろしいな) かつて見た、巨魁・武隼尚賢の嫡男。 その身に宿る武門の血に身震いした畑は、己の責務を果たすため、威厳をもって総司令官の席に腰を落ち着けた。 |