南方戦線 -1


 

 マレー半島。
 ユーラシア大陸の東南端に位置し、南北に細長い特徴を持つ。
 南西沖のマラッカ海峡を隔ててスマトラ島、東方にボルネオ島があり、太平洋とインド洋を阻む交通の要衝である。
 そして、1941年12月当時、大英大国の東方策源地でもあった。
 米英との開戦を決意した大日本帝国にとって初戦で攻略しなければならない要衝である。
 このため、1941年12月、ここは両軍の激戦地となった。






武隼時賢side

「―――ジットラ・ライン、か・・・・」

 12月8日、タイ王国シンゴラ。
 ここにマレー半島を攻略する日本陸軍の主力が展開していた。
 大日本帝国第二十五軍。
 司令官・山下奉文中将、参謀長・鈴木宗作中将、参謀副長・馬奈木敬信少将、高級参謀・池谷半二郎大佐、"機甲参謀"・武隼時賢大佐、作戦主任参謀・辻政信中佐。
 隷下の陸上部隊は第五師団、近衛師団、第十八師団、第三戦車団、3個独立工兵連隊、独立山砲第三連隊、2個野戦重砲兵連隊、第三飛行集団であり、総勢3万5,000。
 他に海軍の南遣艦隊、第二二航空艦隊が参加する予定だった。
 これらの部隊は先程、タイ軍と休戦したばかりである。
 秘匿作戦であったために同盟軍であるタイ軍との協同は考えられていなかったのだ。

「それを突破するための戦車部隊だろう?」

 時賢の呟きを拾った山下がにやりと笑いながら言う。

「ええ、佐伯中佐の指揮下に第一戦車連隊第三中隊が入る予定です」

 佐伯静雄中佐率いる"佐伯挺進隊"は第二十五軍の先鋒としてすでに行動していた。

「マレー半島に展開する英軍はわが軍よりも多数ですが、電撃戦で連携を取らせずに破壊します」

 第二十五軍は精鋭部隊である。
 建軍以来の第五師団、宮城の守りの近衛師団は共に早い段階から機械化されていた。
 第十八師団も開戦直前には機械化師団へ変更されている。
 純機械化師団で編成される第二十五軍は、中国に展開する部隊とは比べ物にならないほど装備が充実していた。

(中国で実戦経験を積み、内地で兵装換装、太平洋戦線へ、か)

 時賢は部隊運営について少し考えたが、首を振る。

(そんな予算はない。早いとこ、中国から撤兵すべきだ)

「さてさて・・・・英軍はどう出るかな?」

 山下は地図を見下ろしながら言った。

「ジットラ・ラインの建設は遅れています」

 池谷の言葉に司令部要員が耳を傾ける。

「工事を請け負ったタイ軍のやる気のなさもそうですが、わが軍の工作員の活動も大きく、豪語されているような防御力はありません」
「ならば突破は容易か?」
「いえ、そういうわけではありません」

 ジットラ・ラインには英軍約6,000が展開している。
 陣地が未完成でも地形の制約があり、苦戦が予想されるのだ。

「突破はできるでしょう。しかし、こちらも少なくない被害を受けるでしょう」

 このマレー作戦は時間が勝負である。
 このジットラ・ライン攻防戦は損害を無視してでも早期終結する必要がある。

「航空部隊の攻撃で徹底的に破壊するか?」
「いえ、時間がありません」

 時賢はマレー半島東岸を指でなぞりながら言った。

「だな。ぐずぐずしていては海軍が負けてしまう」

 馬奈木が言う。

「それは心配しなくてもいいでしょう」
「英海軍東洋艦隊には戦艦がいるだろう?」
「それでも海軍が必ず撃退しますよ」
「海軍がなぁ・・・・」

 馬奈木はあまり海軍を信頼していないようだ。

(馬奈木少将はドイツかぶれだからな)

 福岡県出身だが、九州閥には属しておらず、専らドイツとの関係強化に動いていた。
 陸軍国であるドイツと付き合いが深いため、海軍に対する知識があまりないのだ。

「大丈夫だろうか」

 不安を口にしたのは鈴木参謀長だ。

「馬奈木が言ったように敵には戦艦がおり、こちらの南遣艦隊には戦艦は配備されていないはずだ」
「だな」

 山下も頷いた。
 海軍は真珠湾攻撃を助けるため、旗艦「長門」を含む第一戦隊を呉に温存している。
 出撃しているのは戦艦「金剛」、「榛名」の2隻。
 しかし、これは比島部隊に編入されている。
 アメリカアジア艦隊も戦艦を有しているからだ。
 海軍の目的は陸軍を安全に届けることである。
 このため、島嶼である比島に重点を置いていた。
 最悪、マレー半島はタイ王国経由で撤退できるからである。

「如何に水雷戦隊が精強でも、重巡で戦艦は沈められないだろう」

 手傷を負わせた後、シンガポール軍港に籠られてしまえば、日露戦争における旅順攻略戦の二の舞である。

「海軍も馬鹿ではない。一撃で負けるなんてことはないでしょう」
「それは・・・・そうだな」

 馬奈木もそれは同感のようだ。
 世界の軍事評論家の中で、日本陸軍はそう評価が高くない。しかし、日本海軍はアメリカ、イギリスに続く第三位である。
 ランクがひとつ上のイギリス海軍が相手でも健闘するだろう。

「南遣艦隊を壊滅させるまで、英海軍はマレー半島の沿岸に気を配ることができないでしょう」
「武隼大佐・・・・あなた、もしかして・・・・」

 時賢の考えに思い至ったのか、辻が呟く。

「辻中佐、大発はいくつ持ってきてある?」

 ノモンハン事件以来、辻は兵站を主にしている。
 作戦主任参謀だが、その作戦には常に兵站線が考えられるようになっていた。

「大発、小発共に20です」

 大発動艇は約70、小発動艇は30の兵員が輸送できる。
 物資輸送を無視すれば、最大2,000が輸送できる。

「なるほど。一定の戦力が送り込めますから、これで英軍の背後を突きます」
「海上機動作戦・・・・」

 馬奈木がポツリと呟く。

「武隼家の伝家の宝刀、ということか」

 近代武隼家の祖――元陸軍大将・武隼久賢は戊辰戦争や西南戦争で海上機動作戦を進言した。
 その結果、新政府軍は頑強な抵抗線を突破することができたのである。

「海上機動戦も電撃戦と同じですからね」

 進軍する場所がなければ海を行けばいいのだ。

「さあ、一気にシンガポールへ行きましょう」




 12月10日、佐伯挺身隊が九七式軽装甲車を先頭にイギリス領マレーへ侵入。
 同日、前日から生起していたマレー沖海戦によって英戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」、「レパルス」が日本海軍基地航空隊によって撃沈された。
 同11日に佐伯挺身隊がアースンの国境陣地を突破、同時に武隼大佐によって海上機動作戦が発令される。
 同12日、佐伯挺身隊がジットラ・ラインに到達、戦車突撃によって一部占領。
 同13日、歩兵部隊の到着により夜襲敢行を企図するも、英印軍は全面退却し、ジットラ・ラインは陥落した。

 以後、日本軍は陸路と海路を突き進み、いくつもの英印軍を包囲殲滅する。
 特に1月6日にスリムで英印軍を撃破した時は、前代未聞の島田豊作少佐が戦車夜襲を敢行し、逃げ遅れた英印一個師団を壊滅させた。
 同12日クアラルンプールを陥落させる。
 同14日、19日は英印豪軍と激しく戦ったが、背後に迂回した戦力がこれらを突き崩し、思ったよりも損害は軽微だった。しかし、それでも豪第8師団、英印第45旅団を壊滅させたのである。
 予想以上の進軍速度と損害に驚いた英印軍はマレー半島最南端・ジョホール・バルを放棄することを決定し、1月末から撤退を開始する。

 同31日、工兵隊がマレー半島とシンガポール島を結ぶ土手道を破壊する寸前、日本軍特殊部隊に英工兵隊が襲われて失敗。
 同日に第五師団と近衛師団が相次いで市内に突入し、この土手道を確保したのである。




「―――いやぁ、間に合ってよかった」

 池谷主任参謀は土手道を双眼鏡で眺めながら言った。

「これがなければシンガポール攻略は遅れるところだった」

 これは言い過ぎであるが、得た橋頭堡を維持して物資を送り続けるのは陸路の方が何かと都合がいい。

「辻中佐、どう思う?」

 満足げに頷く彼の隣で、時賢は辻に訊いた。

「英軍は、物資はまだまだ残っているでしょうが、手中にある部隊は全て手負いです」
「こちら兵力が少なくても攻略戦はできる、か・・・・」
「ですが、長い行軍で兵は疲れ切っています。これ以上敵は逃げません」

 辻は暗に休憩を求める。
 このような思考はノモンハン以前には見られなかったものだ。

「同感だ」

 これまでの行程で時賢は辻に対する評価を変えていた。
 まだまだ独走する傾向はあるが、その思考はかなり現実味を帯びつつある。

「山下司令官殿、航空部隊に爆撃を依頼し、その間に部隊を再編、拠点攻略用に切り替えるべきと意見具申いたします」
「シンガポールは難攻不落。確かにそうだな」

 ロンドン海軍軍縮会議の結果、イギリスはシンガポールに要塞を建設する権利を得た。
 ジットラ・ラインはタイが請け負ったが、シンガポールはオーストラリアやニュージーランド、イギリス本国が建設を担当したため、かなりの完成度を持っている。
 しかし、それでも日本陸軍は浸透部隊をゴムボートで派遣、シンガポール内に潜伏させることに成功していた。
 猛爆撃による混乱に乗じ、浸透区域を増やし、主攻撃の時の援護をさせるのだ。

「しかし、誰が特殊部隊を先行させていたのだ?」
「「「は?」」」

 山下の言葉に、馬奈木、池谷、辻の参謀が疑問の声を上げた。

「ん? 先遣部隊の報告では敵工兵隊は自特殊部隊によって壊滅、と報告されたが?」

 特殊部隊は海上機動したのだろう。
 すでにシンガポールに侵入するために派遣していた浸透部隊の一部が土手道を襲ったに違いない。

「何やら派手に爆発もしていたようだが・・・・?」

 山下の視線がゆっくりと武隼に向く。
 山下も戦間期の陸軍内抗争を生き抜いた高級将校だ。
 時賢が何者かも知っている。

「私ではありませんよ?」

 時賢は「魔術師部隊を編成し、派遣したのか?」という問いを否定した。だが、暗に心当たりがあると言ったようなものだ。

(殿下、ですか?)

 高松宮嘉斗が保有する戦力は実はほとんどない。
 海軍情報部の工作員の指揮権を持っているだけだ。

「まあ、何にせよ、シンガポールです」
「・・・・だな。ここを落とせば我々の作戦も終わりだ」




「―――何の用だ?」

 4日夜、辺りが上陸作戦に向けて準備する中、時賢は臨時兵舎の影に隠れていた。
 言葉を放つが、周囲に人影はない。

『―――東條閣下がしくじりました』

 だというのに、質問に返る声があった。
 だがそれは、どこかぼんやりしている。

(魔術による遠隔音声か)

 時賢は己の魔力をいつでも発動できるようにしながら話を聞いた。
 なんでも東條内閣が国家戦略をミスしたというのだ。

「俺に動け、と?」

 東條英機陸軍大将が首魁を務める統制派は、時賢率いる派閥と敵対している。
 呆れたことに負けられない戦争に突入しても、陸軍内は派閥争いをしているのだ。

(開戦直後に首相が交代するのは辛い、が・・・・)

 国家戦略のミスは交代させるのに十分なはず。

「ただ、残念ながら先手を打たれてね」
『・・・・それは?』


「昇進ならび異動命令
 発、陸軍省人事部
 宛、第二五軍機甲参謀 武隼時賢大佐
 内容、少将に昇進の上、支那派遣軍総参謀副長補佐に任ず」


「こうして、俺は中央から遠ざけられたわけだ」
『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・』

 向こう側が黙ってしまった。

「数十年、権謀術数で生き抜いてきた嗅覚はさすがだよ」

 時賢は辞令書をひらひらさせながら言う。

「殿下に伝えてくれ。頑張れ、とな」
『殿下は横須賀航空隊教官に専念するよう、陛下から勅命を下されました』
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 その言葉と共に、海軍情報局の魔術師は姿を消した。






 シンガポール攻防戦。
 1942年2月7日、日本陸軍地上部隊による総攻撃が開始された。
 日本軍の参加兵力は近衛師団、第五師団、第十八師団からなる3万強。
 一方、英印軍は約8万5,000とされた。
 要塞攻防戦であるのに攻め手側が籠城側の半数を切るという数値的に無謀な戦いである。しかし、制海権、制空権共に握る日本軍は総攻撃を採択。
 2月15日に降伏勧告を行い、英軍は降伏。
 マレー方面軍は当初の目的を達成した。
 また、戦車と海上機動を組み込んだ電撃戦の結果、日本軍の損害は少なく済んだ。
 これは貴重な精鋭部隊をすり減らさずに済んだだけでなく、第一作戦全体における英軍の反撃を阻止したのである。
 英軍は元より、豪軍も主力は欧州戦線だ。
 そこから援軍がやってくるとしてもシンガポールを抑えていれば、余裕を持って迎撃できる。
 また、陸軍部隊は他の東南アジアに振り分けることが可能となった。









第37話へ 赤鬼目次へ 第39話へ
Homeへ