海軍軍備充実計画
海軍軍備充実計画。 これは先の海軍軍備補充計画に続く、日本海軍の艦艇建造計画である。 これまで艦艇建造計画をいくつも立て、時に挫折しながらも海軍軍備を充実させてきた。 八四艦隊案、八六艦隊案、八八艦隊案といったワシントン軍縮条約前の建造計画。 ワシントン軍縮条約後の大正12年・昭和2年艦艇補充計画。 ロンドン軍縮条約に応じたマル1計画ならびマル2計画。 そして、脱条約のマル3計画。 マル3計画の目玉は何といっても、大和型戦艦2隻、翔鶴型航空母艦2隻、陽炎型駆逐艦の量産だった。 これに続くマル4計画では、大和型2隻、正規空母1隻(後の「大鳳」)の予算を申請されていた。 そう、"忠実では"。 高松嘉斗side 「―――ようやく、か・・・・」 1941年4月、小沢治三郎海軍中将は目の前の青年将校に見せられた文書を読み、ため息交じりに呟いた。 「はい。空母を基幹とする第一航空艦隊が発足します」 青年将校――嘉斗は文書を受け取る。 「ただ、残念なことは司令官が南雲中将であることですね」 「水雷屋、か。しかし、私も水雷屋なのだがね」 言外に「あなたでないことが残念だ」と言われた小沢が肩をすくめた。しかし、水雷屋であろうとも、空母の集中運用を海軍大臣に提出したのは小沢なのだ。 小沢が率いることが、その理想を実現するために一番近道だったと言えよう。 その道を阻んだのは、年次・席次と言う実に事務的な壁だった。 「塚原さんであればよかったのにな」 「負傷が元で艦隊勤務に不適とされたのでしょう」 南雲と同期の航空屋・塚原二四三は中国戦線で負傷、左腕を失っていたのだ。 「ただ、南雲さんも草鹿も航空作戦に明るくない。意見具申を行う航空参謀の腕で評価が決まるだろう」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 小沢の言葉に、嘉斗は黙り込んだ。 この艦隊に名を連ねた、ひとりの幕僚の顔を思い浮かべたのである。 「あなたの同期ならば、どうか?」 「奴ならばきっとこの任を成し遂げるでしょう」 第一航空艦隊航空参謀・源田実海軍中佐。 バリバリの航空屋である。 「しかし、空母4隻の集中運用、か・・・・。我が案ながら、海軍も思い切ったものだ」 「たかが4隻程度。これからさらに増えるのですから」 「・・・・翔鶴型空母はいいとして、伊勢型戦艦の改装、装甲空母、改翔鶴型空母の建造、か・・・・」 大型空母7隻が3年以内に追加される。 今更、大型空母2隻、中型空母2隻の編成で慌ててはいられない。 「まあ、僕も随分思い切った計画だとは思いますが」 マル3計画は、大和型戦艦2隻、翔鶴型空母2隻、改高雄型重巡4隻、陽炎型駆逐艦18隻、巡洋潜水艦13隻。 他に練習巡洋艦2隻、日進型水上機母艦1隻、準明石型工作艦3隻、敷設艦1隻、白鷹型敷設網艦2隻、測量艦1隻、給糧艦2隻、給兵艦1隻。 これに伊勢型2隻の戦艦改装空母が加わる。 実に戦闘艦艇44隻(内、2隻練習艦艇)、特務艦10隻。 計54隻、45万2,023トン(基準排水量)。 予算は12億532万円(水雷艇などの小型艦艇は除く)。 当時の金銭感覚ならば、1万円で家が建つとされる。 現代の家が地方にて2,000万円で建つとすると、現代換算にして2兆4,106億4,000万円。 海上自衛隊の全予算を上回る値である。そして、この予算の6分の1は大和型戦艦で占めていた。 如何に戦艦建造に金がかかるかが分かる。 「だが、私はマル4の方が驚かされたよ」 元々、マル3計画とマル4計画で将来の艦隊建造計画を完遂させるはずだった。 このため、当初は大和型戦艦3~4番艦の予算が組まれていたのである。 「戦艦なし、大型空母3、中型空母1。完全に航空主兵主義ですからなぁ」 小沢が顎を撫でながら嘉斗の顔を覗き込んだ。 「装甲空母も雲龍型も試験艦の性格が強いですがね」 マル4計画は、装甲空母1隻、改翔鶴型空母2隻、雲龍型空母1隻、改利根型重巡洋艦2隻、阿賀野型軽巡4隻、大淀型軽巡2隻、陽炎型駆逐艦4隻、夕雲型駆逐艦13隻、島風型駆逐艦1隻、秋月型駆逐艦6隻、海大型潜水艦10隻、巡洋潜水艦15隻という強力なものだった。 他に香取型練習巡洋艦1隻、白鷹型敷設網艦1隻、洲埼型給油艦1隻。 戦闘艦艇62隻(内、1隻練習艦艇)、特務艦3隻。 計65隻、28万1,963トン(基準排水量)。 予算は13億9,655万円(水雷艇などの小型艦艇は除く)。 予算、隻数の割に基準排水量が少ないのは、駆逐艦と潜水艦の量産がメインだったからだ。 マル3計画ならびマル4計画が実現するであろう1943年。 日本海軍は全116艦艇を海に送り出す。 その内戦闘艦艇は戦艦2、正規空母6、水上機母艦1、重巡6、軽巡9(内、3隻は練習巡洋艦)、駆逐艦42、潜水艦38。 また、これに加えて航空機輸送艦として配備されていた2隻を空母に改装。 準正規空母としての能力を持つ「雷鷹」、「鳴鷹」が加わっていた。 さらに大型優秀船建造助成施設を利用した橿原丸、出雲丸の空母改装も進んでいる。 これらの艦艇は平時に航空機輸送や練習空母として使用し、有事には航空隊を編成して戦闘に参加する予定だった。 「これでどうにかアメリカと戦える戦力が揃いますね」 アメリカ海軍は正規空母7隻を保有している。 量産が決まっているエセックス級航空母艦の就役は1943年からと予想されていた。 1942年末に限れば、日本は正規空母11隻、アメリカは7隻と大きく上回る。 搭載機数も約850機 vs 約650機と勝っていた。 これに加え、着実に進む改造空母(10隻、約400機)を加えると、世界最強航空打撃力を持つ海軍に成長する。 「ただし、搭乗員の養成が追い付きますかな?」 「そこは・・・・頑張るしかありませんね」 出師準備発令から搭乗員の大量養成は始まっており、ベテランが複数人の生徒に教練している。しかし、搭乗員は飛べればいい、というものではない。 「飛行時間に関しては、練習機の増産と航空燃料の増産で賄っているようです」 「ここでも油問題が出てくるか・・・・」 小沢が唸り声と共に日本海軍が悩んでいる問題を口にした。 日本はアメリカや蘭印から石油を輸入している。 今はまだ禁油措置は取られていないが、このまま日米関係が悪化すればどうなるか分からない。 このため、日本政府は人工石油製造施設の建造を急いでいた。 「やはり、外交関係を少し動かさなければなりませんか」 嘉斗は小沢から視線を外し、中空にそれを固定する。 「皇室外交でオランダを繋ぎとめる。しかし、いつ敵に回ってもいいように・・・・」 そのまま思考の海に沈んでいった。 (蘭印にも潜り込ませる必要がありますね) 完全に小沢のことを忘れている。 口元に小さな笑みを浮かべる嘉斗を見て、小沢は疲れた表情を浮かべた。 「おっと。ここで考えることではありませんね」 小沢の様子に気付いた嘉斗は苦笑いを浮かべる。 「そうですね。そういうことは他の仲間の前でお願いします」 「失礼しました」 小さく頭を下げた嘉斗に小沢は冗談交じりで話題を変えた。 「ところで、殿下はどこまでこのマル3、マル4に関わっておられたのです?」 「・・・・・・・・さて、何のことでしょうか?」 その内容は、冗談では済まない大きなものだったが。 「マル3計画も、からくりを知っている殿下が監修しなければ立てられない計画ですからなぁ」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 マル3計画が立案された時は、まだ第二次ロンドン軍縮会議が有効だった。 にも関わらず、日本海軍は軍縮明けから遅滞なく脱軍縮の軍備計画を進め始めた。 一部は前倒しだったと言ってよく、マル3計画の艦艇の一部はすでに就役している。 「僕はただ単に、伏見宮に脱軍縮のバージョンを用意してください、と言っただけですよ?」 「・・・・伏見宮元帥が艦政本部に働きかけ、設計や予算確保を進めた、というわけですか」 「ですね」 しれっと嘉斗は答え、出された茶を口に含む。 「まあ、ちょっと亀に政財界向けに"言葉"を発してもらいましたが」 「・・・・有栖川の言霊ですか」 「魔術ほど強制的なものではありませんよ」 あくまで口添えをしただけだ。 強制力はない。 「それでも絶大でしょうに」 言葉を司る有栖川家の人間の言葉である。 経営者は意外と信心深いものだった。 「ですが、何故、政財界なのです?」 「今回の建造計画はようやく訪れた造船ピークです」 二度の軍縮会議の結果、海軍休日と呼ばれる造船業の冬が来た。 海軍休日中に発達した技術の実践ができると造船業は勢いづいている。 当然、人や物資が動き、金も動く。 特に加藤友三郎元首相の政策の結果、日本は大型艦同時建造能力が忠実よりも向上している。 さらに中国戦線不介入などの効果もあり、経済的にも発展していた。 結果、海軍建造計画に回せる予算も忠実より多い。 「ビックビジネスチャンスなんですよ、彼らからすれば」 「・・・・でしょうなぁ」 「そこに戦艦5年、空母3年。これに建造単価の話をすれば・・・・」 「・・・・空母建造を訴えるでしょうね」 今回から建造計画予算には政財界の寄付金も受け付けており、彼らの意向が影響力を持っていたのだ。 「伏見宮元帥は大艦巨砲主義者だと思っていたのですが?」 政財界がそう言っても、伏見宮が反対すればそちらになびきかねない。 「伏見宮は話せる方でしたね。僕のブレーンと胸襟を割って話し合い、やや主旨変えをされたようです」 「堀さんか・・・・」 堀悌吉が嘉斗のバックについていることは海軍内では有名である。そして、海軍内部に口を出す彼を排除するために何人か行動を起こしたが、逆に左遷されていた。 全て嘉斗が手を回したものである。 今では近衛の侍従武官が彼の護衛についており、反対派もおいそれと手を出すことができない状況だった。 「・・・・・・・・・・・・殿下、あまり謀略に走りますと後々に禍根を残しますぞ?」 小沢が本当に心配した顔つきで嘉斗を見る。 海軍内において、軍政で嘉斗を止められるものはいない。 山本五十六を筆頭に同志も多く、武力行使しようにも強力な護衛がついている。しかし、強大であれば強大であるほど、それを害しようとする者たちは暴走しやすい。 さらに鬱屈とした恨み辛みが積み重なることだろう。 「禍根を恐れていては、皇族は務まりませんよ」 「・・・・はぁ」 皇族の歴史とはそのまま血に塗られた歴史と言える。 本来ならば滅亡しているところを、血筋と情勢を見る目、優秀な側近を駆使して生き抜いてきた。 彼らが武器を取って戦場を駆けたのははるか昔のことである。 紡いだ歴史の中、謀略で生きた時代の方がはるかに長い。 「安心してください。開戦準備の坂道を転がり始めた海軍で、今更僕に手を出そうという余裕のある人はいませんよ」 そもそもそういう謀略を担当する情報部が嘉斗の本拠地なのだ。 海軍士官が手を出せるわけがない。 「しかし・・・・」 「大丈夫です」 嘉斗は小沢の言葉を切って立ち上がった。 「これ以上は小沢さんも危なくなりますよ」 「小官如き、代わりなど―――」 「いたとしても、将官がひとり減るのは損失です」 これから戦争かもしれないのに、航空戦に一定の理解のある将官が消えるのは痛手以外の何物でもない。 「ま、ここまで来たのです。つまらないミスはしませんよ」 元々陸軍に入るつもりでコネづくりをしていた嘉斗。 それが武隼久賢公の影響で海軍に入隊。 まさに身ひとつで海軍内を生きてきた。 派閥争いも経験したし、皇族軍人として孤立もした。 二・二六事件が最大の危機だったが、それを乗り切った今、嘉斗を止められるものはいない。 (いるとすれば、外国の工作員。・・・・もしくは・・・・・・・・) 小沢のところを辞した嘉斗は、護衛と合流するために海軍基地を歩いていた。 出師準備の影響か、基地は慌ただしく、しかし、活気に溢れている。 「実も、美津雄も元気ですかね」 源田実は、先に言った通り、第一航空艦隊の航空参謀となる。 淵田美津雄は今現在、第三航空戦隊の参謀だ。 嘉斗と源田は中佐、淵田は少佐。 淵田も今年には中佐になるだろう。 となれば、全員が参謀職で戦争に関わることとなる。 「―――元気に同期と会いたいのならば、大人しくしていることですね」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 基地の建物の隙間から、影のように人間が湧いて出た。 事実は違うのだろうが、嘉斗にはそう思えたほど、彼の出現はいきなりだった。 「陸軍の方ですね。ここは海軍基地ですよ?」 「同じ日本軍です。別にいいでしょう?」 内心の動揺を隠し、嘉斗は何気ない口調で不法侵入をとがめる。しかし、彼は気にした様子もなく、微笑を浮かべて嘉斗を観察していた。 (・・・・嫌な目です) にわか仕込みの工作員でもできる笑みだ。だが、彼らの場合、目は笑っていない。 本当に訓練された者は、目も笑うのだ。 今、目の前にいるのはそういう芸当ができる人間だった。 「海軍基地では海軍中佐。外に出れば皇族として侍従武官の護衛が付く」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 「あなたとこうして会うにはここに来るしかなかったのですよ」 嘉斗は周囲を見回す。 視界には海兵一兵も見当たらなかった。 それどころか、先程までの喧騒も消えている。 「人払いの魔術、ですか?」 「ええ。鋼鉄の塊を駆使する海軍と言えど、陸戦は可能ですから」 海軍と言えど、基地には個人戦闘を任務とする警備兵がいる。 「・・・・で、何用ですか?」 「あまり派手に動かれぬようお願い申し上げます」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 「皇族のお立場で国を動かされますと、今後に差し障ります」 「忠告ですか?」 嘉斗の行動をよく思っていない人種には2種類ある。 その1種類は派閥争いとも言える、海軍の主導権を握りたいグループだ。 もう1種類は「皇族」として権力をふるう嘉斗を危ぶんでいるグループである。 後者は、嘉斗の行動が諸外国に咎められ、大日本帝国の国家目標である国体護持を脅かしかねないと見ていた。 今回の大戦で大日本帝国が敗北し、戦争責任を取って天皇制が廃されることとなれば、明治以来の国家目標は達成できず、大日本帝国は滅亡する。 嘉斗が大人しくしていれば、たとえ敗北しても国体を護持する方法はいくらでもあった。 「あなた方の忠義はあっぱれと思いますが。最初から負けることを考えていては勝てる戦も勝てませんよ」 「あなたが動かなくても勝てますよ」 「本当に、そう思っているのですか?」 嘉斗は彼の目を覗き込むようにして告げる。 「中野学校の出身者ともあろうあなたが」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 彼は黙り込んだ。 分かっているのだ。 徹底的に諜報知識を叩きこまれた彼にも。 このまま正攻法でいっても日本はアメリカには勝てない。 勝つには奇策を用いるしかない。 「・・・・ですが、殿下直々になさることもありますまい」 「僕がしないと前に進みません」 嘉斗は止めていた足を動かし、基地から去るために歩き出した。 彼はその進路を阻まず、背中を追おうともしない。 「その行動が帝国に仇なすとしてもですか?」 「僕はこの行動が仇となるとは思っていませんから」 振り返らずに答えた嘉斗の背後で、気配が消えた。 それと同時に消えていた喧騒が戻ってくる。 (さすがは陸軍諜報員養成機関ですね) 嘉斗は基地の門番に退出を告げ、外で待っていた護衛と合流した。 今この時から高松嘉斗海軍中佐ではなく、高松宮嘉斗殿下となった彼は、ため息と共に呟いた。 「中野学校、か・・・・」 陸軍中野学校。 1938年防諜研究所として新設された日本陸軍の諜報員育成学校である。 その卒業生はこれまでの偵察による情報収集ではなく、現地に溶け込み、破壊工作も行う部隊である。 ただし、海軍情報局とは違って情報機関ではなく、方面軍に所属した活動を実施する。 (彼の後ろにいたのは誰か・・・・) 憲兵隊――東条英機ではない。 (陸軍は分かりません・・・・) 海軍情報局と言えど、陸軍内まで情報網を広げてはいない。 (新しい部隊が必要ですね) 欧米に対する諜報戦も強化しなければならないのだ。 「・・・・海軍省へ向かってください」 「はっ」 自動車に乗り込み、行き先を告げる。 「さてさて及川さんは会ってくれるでしょうか」 「奥方様に言って、珍しい書籍を取り寄せては?」 「その手がありました」 及川は読書家として有名である。 有栖川家が持つ珍書を手土産にすれば面会できるかもしれない。 「ならば、まずは高松邸へ」 「了解いたしました」 嘉斗は直宮としての血筋を最大限に利用し、海軍を動かそうとしていた。 この行動は当然、彼に反発する者を増やす結果となる。しかし、嘉斗は意に介さなかった。 (まずは耳目を作りましょう。話はそれからです) 海軍に入って見えてきた、嘉斗自身の仕事。 このために海軍に入ったのだ。 (例え同胞を敵に回しても、同胞を助けなければなりません) 嘉斗は自動車に揺られながら目を閉じる。 魔力の波動を探れば、要所要所に反応があった。 全て宮内省が配備した侍従武官である。 (海軍もこのくらい揃えねばなりません) 諜報機関は存在するが、工作員養成機関は存在しなかった。 嘉斗は及川に海軍版中野学校設立を進言に行くのである。 これは後に実現し、戦局に少なからぬ影響を与えることとなる。しかし、その立案者の名前は、文書には残っておらず、後年まで不明だった。 |