国共内戦


 

 国共内戦。
 1920~30年代、46年以降に起きた中国国民党と中国共産党による戦争である。
 いくつかの国共合作を経て、日中戦争に突入。
 日中戦争終結後に再び刃を交え、最終的には中国大陸を中国共産党が、台湾島を中国国民党が支配することで休戦した。
 つまり、日本が中国大陸から撤退したとしても、中国大陸から戦争はなくならなかったのである。
 では、この物語ではどうか。
 日本軍は中国大陸から撤退はしなかったが、国民党との全面戦争は回避した。
 その結果として、1939月9月12日、中国共産党が国民党側として孤立していた北京や天津に対して攻勢に出た。
 この攻撃で国民革命軍は損耗率約87%という甚大な被害を出して壊滅する。
 この戦役を皮切りに国民革命軍は各地で敗北を続けた。
 蒋介石はアメリカの支援を受けた部隊が訓練を終えるまで、戦線の維持を決意。
 長江を防波堤にしようと考えたのだ。
 ここに人民解放軍主力軍と長江守備隊による淮海戦役が、同年11月6日に勃発。
 兵力で勝るはずの国民革命軍は練度不足から敗北を続けた。
 著しく戦力を損耗したことで、首都・南京を守り切れないと判断した蒋介石は、首都の放棄を決意。
 まだ味方が戦っているというのに、12月18日に南京から脱出した。
 南方にてアメリカ式の訓練を行っている精鋭を頼り、広州へと移動する。
 ソ連を後ろ盾にする人民解放軍の前に、南京と上海が無防備に放置されたのだ。




「―――南京は死守する!」

 蒋介石以下国民党の首脳が南京を退去する時、そう言って南京に残った政治家がいた。
 汪兆銘である。
 日中紛争の折は、和平派に属して日本と交渉を続けた穏健派だ。しかし、逆に言えば日本との戦争を回避し、共産党との戦いに集中しようとしたとも言える。
 言わば、反共なのだ。

「総統、今ここで南京を放棄するとどうなるか分かりますか?」

 不退転の意志を示す軍服姿の汪兆銘は蒋介石に問い、その答えを聞く前に解答を言った。

「中国は簡単に首都を放棄する信用ならない国、と見られます」
「・・・・しかし、現実問題、戦力がない。アメリカの指導の下、軍を再編中だが、彼らをいたずらに投入すれば、上海事変のようになる」

 蒋介石は現在の状況を招いた上海事変を悔いていた。
 ドイツ式の訓練を受けた自軍の強さを過信し、所詮は陸に上がった海軍と蔑んでいた上海特別陸戦隊を相手に苦戦する。
 引き際を誤った結果、日本陸軍の猛攻に晒されて壊滅。

「戦力ならあります」
「どこに?」
「日本列島に」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 ポカンと蒋介石が口を開けた。

「日本も中国が赤化するのを避けたいはずです」

 日本が反共の立場でいることは明白だ。

「増援を要請し、日中手を取り合って、共産主義者を打倒しましょう」
「日本で勝てるか?」

 日本はノモンハン事件でソ連に敗北した。

「日本の強さは、我々がよく分かっているのでは?」

 汪兆銘は嫌みのつもりはなかったが、この言葉は蒋介石を深くえぐる。
 拗ねにも似た感情だったが、蒋介石はその感情に逆らわずに行動した。

「・・・・ふん、やってみろ」

 蒋介石は自信満々に言う汪兆銘に吐き捨て、側近を連れてその場から去る。
 この時、汪兆銘は日本を巻き込んで南京を防衛すると決めた。
 この出来事が、蒋介石と汪兆銘の間に埋めようもない溝を生んだのだ。






大陸派兵scene

「―――いったいどうすれば・・・・」

 1939年12月22日、大日本帝国首都・東京。
 年の瀬が迫り、雪の降る中、首相官邸では阿部信行内閣総理大臣が頭を抱えていた。
 その場にいるのは彼らだけではない。
 今は閣議の真っ最中なのだ。

「徐州の国民革命軍は総崩れ。人民解放軍が長江を突破するのも時間の問題だな」

 陸軍大臣・畑俊六は南京に駐在している陸軍軍人からの報告を読み上げた。

「蒋介石以下国民党の幹部はすでに脱出済み。南京には汪兆銘以下汪派の人間が民衆を指揮している」
「現在の国民党の戦力は?」

 吉田善吾海軍大臣の質問に畑は再び報告書に目を落とす。

「ほぼ壊滅状態。南方の広州を中心に、アメリカ式の訓練を受けている正規兵が約20万。ただし、これは温存したいようだな」

 汪兆銘が指揮できる戦力は約10万。
 そのほとんどが日本式の装備で統一されており、各地で敗北を続けた軍団よりは統一装備、という面で戦術的に指揮しやすい。

「民兵もいくらか加わるようなので・・・・絶望的、というわけではない、か?」
「・・・・人民解放軍は?」
「約50万。各地に散っている戦力を併せれば、80万と見られる」
「ただし、これは民兵を抜いた、正規兵だ」

 外務大臣・野村吉三郎が付け足す。

「総兵力というならば、数百万と言える」
『『『『『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・』』』』』

 日本政府が日中紛争を必死に止めたのは、圧倒的な人口を誇る中国に軍が飲み込まれると考えたからだ。
 総力戦となった現代の戦いでは、何度決戦を行っても勝てないのだ。
 阿部首相が頭を抱えているのは、汪兆銘の要請を受け入れて出兵すれば、泥沼の戦いに巻き込まれることが分かっていたからである。
 だが、中国が赤化すれば、次は日本の経済圏が矢面になる。
 味方がいるうちに、共産党を打破するべきではないか。

「内閣としては、ふたつの道がある」

 畑が二本指を立てて強調する。

「汪兆銘の要請を拒否し、国力を温存。蒋介石-アメリカによる抵抗が実を結ぶことを祈ること」

 一本減る。

「汪兆銘の要請を受諾。ただちに軍を送って人民解放軍を撃破する。陸軍にはその能力はある」

 ただし、一戦役に限定すべきである。
 日本政府、というか天皇の意向は大陸での不拡大である。

「ほぉ、陸軍はもう作戦案を持っているのか」

 吉田の嫌味を受けたが、畑は何も言わずに従兵に指示を送った。
 従兵は抱えていた書類を閣僚に配り出す。

「作戦内容については、参謀総長にお願いする」

 畑がそう言うと、会議室の部屋がノックされた。

「陸軍参謀総長・杉山元大将です」

 敬礼した陸軍軍人は、陸軍大臣を長く務めた、陸軍の重鎮だ。

「結論から言うと、本作戦の目的は『南京に迫る人民解放軍の撃破』です。中国全土の人民解放軍を相手にするものではありません」



『上海に住む日本国民の避難を援助する』



 これが、日本軍が上海及び南京に出兵した口実だった。
 同じような口実で、日本は朝鮮に出兵、結果、日清戦争が勃発した。

「何事もなければいいが・・・・」

 護衛船団を率いた小沢治三郎少将は、上陸していく陸軍を見ながら言う。
 上空には九六艦戦が哨戒しており、万が一の空襲に備えていた。
 小沢は空母「赤城」、「加賀」を擁する第一航空戦隊の司令長官でもあるのだ。
 今回は陸軍3個師団を中心とした5万人が上陸した。
 輸送艦には上海にいた邦人の他、外国人希望者を積み込むものもある。
 日本は上海事変の結果、上海における権益を放棄していた。しかし、商人を中心にかなりの数が残っていたのだ。

(出兵の理由は分かる。しかし、とどまる理由は?)

 ましてや南京を守るために人民解放軍を攻撃する理由はなんなのだろうか。

「また、戦争が始まらなければいいが・・・・」

 ようやく艦隊更新が軌道に乗ってきたのだ。
 ここで戦争が始まれば、その計画も変更になりかねない。

「長官、陸軍より電信です」
『発、派上海軍総司令官。宛、護衛艦隊司令長官。貴君らに感謝を。共に人民解放軍を破滅に導かんことを』
「・・・・不安だ」

 今回の派上海軍総司令官は、陸軍の重鎮だ。
 薩長体制に嫌気がさし、皇道派と共に生まれた統制派。
 その首魁・東条英機陸軍大将である。
 後に、その不安は的中することになる。



 1940年1月10日、第一次先遣隊、第二次先遣隊に続く本隊の上陸が始まった。
 日本軍が抱えるほぼ全ての輸送艦を使った、所謂「全力輸送」によって半月で上陸した戦力は約30万。
 20個師団に3個戦車旅団、1個飛行集団。
 一連の日中紛争でも投入したことがない大軍だ。
 それを日本陸軍は見事に輸送して見せた。
 海軍と摺り合わせた完璧なスケジュール管理で行う大規模輸送作戦。
 その草案は、関東軍から転身し、兵站部門に配属になった辻政信中佐のものだった。

 だがしかし、相手は世界最大の人口を抱え、その国の過半を手中に収めた勢力だ。
 毛沢東を頂点とする中国共産党は、ソ連式の訓練を積んだ正規兵50万、共産主義に心酔した民兵30万を南京に向けて進発させた。
 対抗する南京は、汪兆銘をリーダーに、正規兵15万、民兵5万の計20万。
 また、南方には蒋介石をリーダーにアメリカ式訓練を積んだ国民革命軍約20万がいる。
 蒋介石は南京を見捨ててでも、このアメリカ式正規兵の充実を目論んでいた。
 このため、南京攻防戦は、人民解放軍にとっては決戦。
 蒋介石にとっては時間稼ぎ、汪兆銘にとっては意地の戦いだった。
 では、日本軍にとってはどんな戦いだったのだろうか。



「―――総司令官殿、政府より電信が参っておりますが」
「ああ、そこに置いておけ」

 東条は電信員にそう言うと、再び中国大陸の地図に顔を向けた。

「あ、あの・・・・」

 紙を置いたが、全く見ようともしない東条に電信員は戸惑いの視線を向ける。

「用は済んだのだろう? 帰りたまえ」

 東条の側近にそう言われ、彼は司令本部を後にした。

(いったい、いつ出撃されるのだろう・・・・)

 暗号を解読したのは彼だ。
 そう、政府からの電信内容は「早く南京を助けに行け」であった。
 10日前の1940年1月3日に、南京にて両軍が激突していたのである。しかし、上海に展開した日本軍は動かなかった。
 対外的に言えば、当然である。
 日本軍は上海防衛のために出兵したのであり、南京は管轄外だ。
 しかし、政府は汪兆銘の要請を受ける形で兵を出した。
 このままでは国民党に日本は嘘つきだとされ、再び戦争が始まりかねない。

(弱腰の阿部め・・・・)

 東条は上海から海岸線をなぞり、南までゆっくり視線を動かす。

(国家百年の安寧を築く戦が始まっているのが分からんか)

 統制派の考えは、国家総動員体制を整え、ソ連とはつかず離れずの関係を築く。
 そうした上で、中国に一撃を与えて黙らせ、全身全霊を持ってアメリカに立ち向かう、というものだった。
 ノモンハン事件以後、日本は日ソ不可侵条約を結ぼうとしている。
 次の段階は、中国に一撃を与えること。
 その目的は中国が日本に一目を置き、干渉しないようにすること、である。
 戦争拡大によって裾が引かれた状態ではアメリカとは戦えない。
 統制派の目的は、形こそ違え、高松嘉斗と似通っていた。

「南京はいつまで持つと思う?」
「はっ。兵力差は約2倍強。如何に南京城が堅城と言えど、現代兵器を前に城壁は無意味かと・・・・」

 側近の言葉に頷いた東条は、やや昏い笑みを浮かべて呟く。

「出兵の口実の後は・・・・開戦の口実が必要である・・・・」
「は?」
「今は待つ。いずれ、別の場所で開戦の狼煙が上がろう」

 東条はじっと中国大陸南方に浮かぶ島――海南島を見ていた。



 1940年1月16日、阿部信行は内閣総辞職を決定。
 理由は陸軍を統制できなくなったことと、世界各地の国家との関係が悪化したことによる外交的手詰まりだった。
 また、内政面でも無意味な法案を通すなどの混乱を来した。
 阿部にとって不幸だったのは、政治という化け物に対する経験不足と周囲の過度な期待だった。
 同日、米内光政に大命が下る。
 米内光政は長く海軍大臣を務め、政治にも明るい。
 そして、彼も敵はアメリカだと判断していた。

『全ては対アメリカのために』

 陸海首脳部の思惑が一致した時、日本軍は本来の力を発揮する。


 1940年1月22日、中国南部の海南島守備隊が国民党を離反、中国共産党に寝返った。そして、同地に展開していた水雷艇が、南シナ海を航行していた日本国籍船舶を撃沈する。
 これを受け、米内内閣は中国共産党に向けて宣戦布告。
 通商路保持に必要な海南島を攻略するため、海洋軍団を主力とした陸海協同作戦を発動する。
 同時に東条英機を総司令官とする派上海軍団を支那派遣軍と改称し、南京周辺の人民解放軍を撃破するように命じた。
 すでに市街戦に移行していた南京攻防戦は、急展開を迎えることとなったのだ。


「―――奇跡だ・・・・」

 汪兆銘は爆炎で煤けた頬を拭うことなく、空を見上げていた。
 そこには昨日まで乱舞していた中国共産党空軍ではなく、日の丸を描いた機体が乱舞している。
 日本陸軍の主力戦闘機・九七式戦闘機だ。
 それはノモンハン事件の反省を生かし、改良が行われていた。
 7.7mm機銃ではなく、強化された12.7mm機銃の銃声が所々で響き渡っている。
 人民解放軍を攻撃しているのだ。
 戦闘機の他に九七式重爆撃機も展開していた。
 これらは南京郊外に展開した人民解放軍に攻撃している。

「これは夢ではないな・・・・?」

 今日は1940年1月29日。
 南京攻防戦が始まり、3週間経っていた。
 この3週間、上海の日本軍は動かなかった。
 その事実に諦めていた汪兆銘だが、日本の増援に心動かされるものがあった。
 日本は自分たちを見捨ててはいなかった。
 何らかの要因で動けなかっただけ。
 動いたのならば、全力で自分たちを助けてくれる。

「いいぞ、押し返せ!」

 自分を守るために温存していた兵力も投入して、戦線を押し返す。
 それに呼応するように、南東から日本陸軍の地上部隊が現れた。
 大軍とは言え、南京を包囲するように展開していた人民解放軍は、一気に崩れた。
 空地一致の攻撃に、南東方面の軍が一瞬で崩れる。
 続いて迂回していた戦車旅団が北方から攻撃を開始する。
 さらには長江北岸に日本軍が上陸したというビラまで撒かれた。
 最後のはデマだったが、第二次上海事変の折に杭州に上陸した時も日本軍は宣伝した。
 これを本気にとった司令部は混乱する。
 言わば、「聞き崩れ」と呼ばれる現象だった。



「―――総司令官殿! 南京正面、空きました!」

 斥候隊の報告に、東条は一瞬悩みを見せた。
 奇襲攻撃で人民解放軍は崩れ立っている。しかし、現代軍は近代軍と違い、無線などを配備しており、総司令官の声が末端まで届きやすい。
 これだけの大軍を一気に崩れさせるなど不可能だ。

(ならば、精鋭を南京に突入させ、南京に入り込んだ軍を駆逐すれば・・・・)

 南京攻略は日本軍を退けてからでなければ、なしえない。
 人民解放軍が撤退する可能性があった。
 支那派遣軍の目的は南京周辺の人民解放軍の駆逐だ。
 敵が撤退しても、その目的は達成される。
 ただでさえ兵力差がありすぎる。
 ここで日本軍を消耗させるわけには行かなかった。

「しかし、市街戦は・・・・」

―――民間人に被害が出る。

 そう考え、南京突入中止を宣言しようとした時、東条は前方を見て目を剥く。
 一部の部隊が南京向けて突撃していくのだ。

「報告します。『我が部隊は南京奪還向けて進軍開始。必ずや南京開放という戦略目標を達成して見せます』とのこと」

 電信員の報告に、東条は手にしていた万年筆をへし折った。

(これが陸軍の実体か・・・・)

 出先機関の暴走。
 それは出先機関の首脳部ではなく、現場に引きずられる形で起こる。
 満州事変しかり、ノモンハン事件しかり。

(この体質をどうにかしない限り、日本は滅ぶぞ)

 結局、一部隊が南京に突入し、市街戦に発展した。
 すでに両軍の戦闘で破壊された町が、日本軍によっても破壊される。
 戦略的に言えば、1日で人民解放軍を駆逐した日本軍は南京という町にとっては救世主となった。
 だがしかし、南京に住む中国人からすれば、自分たちの住む場所を破壊した者と同じだ。
 これが戦後に、中華人民共和国によって「南京大虐殺」という汚名を着せられることとなる。

 何はともあれ、ソ連式の訓練を受けていようと、装甲兵器に劣る人民解放軍は、300輌以上の戦車とそれに匹敵する量の装甲車を投入した日本軍の前には無力だった。
 南京解放後に行われた合肥会戦は、ノモンハン事件初期に行われた会戦と同じ経緯を辿る。
 つまりは、歩兵の無謀な突撃で、いたずらに損害を増やした人民解放軍は5日に及ぶ総攻撃の結果、兵力の半数を失う。
 長江を渡り、撤退しようとするところを、汪兆銘率いる国民革命軍に攻撃された。
 この追撃戦には日本陸軍の地上部隊は参加しなかった。しかし、航空隊は派遣する。
 それでも長江が真っ赤に染まるほどの激戦が展開された。
 結果的に人民解放軍は兵力80万中60万を喪失。
 中国共産党は、国民党に続き、上海-南京戦線にて主力軍を喪失したのだ。
 以後、双方に主力を欠いた国共内戦は小規模的な、泥沼的な長期戦へと移行することとなる。

 そんな中、日本軍単体で、海南島攻略戦が行われた。


「―――いやぁ・・・・すさまじい・・・・」

 1940年2月15日、海南島。
 高松嘉斗海軍中佐は、九四式水上機で海南島を見下ろしていた。
 日本軍は2月10日に海洋軍団所属第一旅団が海南島北部に上陸する。
 続く14日には海軍特別陸戦隊が南部の三亜に敵前上陸。
 物量に勝る日本軍は人民解放軍を一方的に攻撃して壊滅させた。
 上陸前には海軍第五戦隊所属の重巡艦隊が艦砲射撃を行った他、第二航空戦隊の空母「飛龍」、「蒼龍」の航空隊も参加。
 中央部の山間部に逃げ込もうとした人民解放軍は航空隊に邪魔され、日本軍が陸揚げした九五式軽戦車に次々と追いつかれた。
 結果的に少数の軍人が山間部に逃げ込んだが、組織的な抵抗は不可能だった。
 日本軍は攻撃から5日後、海南島の占領を宣言したのである。

「っと、計器が・・・・」

 操縦士が首をひねりながら計器を弄った。
 誤作動をしたようである。

(やはり中島さんの言う通り、ですか)

 海南島を低空飛行する航空機の計器に誤作動が生じることは、日本海軍内でも知られていた。
 これは後に石緑鉄鉱山となる鉄鉱山の影響である。
 今回の海南島占領作戦は海上輸送路の安全確保の他に、この鉱山開発が含まれていた。
 これを示唆したのは、中島知久平現政友会総裁および中島飛行機創設者である。

「中佐、本作戦は成功ですか?」

 操縦している海軍軍人がそう質問してくる。

「ええ、海南島攻略作戦、という面では成功です」

 日本全体の大戦略として成功かどうかは、後に自分たちが証明しなければならない。

「三亜軍港の拡張、修理ドックの建設、飛行場の建設。急がなければならないことが多数あります」

 水上機は高度を下げ、三亜軍港へと進路を向ける。
 そこには日本海軍が誇る妙高型重巡洋艦が錨を降ろしている。
 嘉斗は旗艦である「妙高」に乗っていた。

「ここからは・・・・外交ですよ」

 外務省は占領から3日後、海南島を国共内戦終結まで日本の管理下に置くことを宣言した。そして、汪兆銘は南京救援の対価として了承する。
 日本は海南島を支配下に置くことで、南シナ海のシーレーンを守ることに注力した。
 海軍は軽巡1隻、駆逐艦4隻を主力に南シナ海艦隊を発足させるたが、本当の主力は航空部隊だ。
 陸上攻撃機用の滑走路を6本、戦闘機用の滑走路を10本と計16本の滑走路を整備するつもりだった。
 展開戦力は陸攻約150機、戦闘機約240機を想定していた。
 これは台湾に匹敵する戦力である。

 蒋介石は日本の宣言を受け、「太平洋上の満州事変」と評した。
 満州事変をきっかけとした日中紛争が始まったことから、この海南島攻略をきっかけに太平洋に戦乱が来ることを予見したものだった。
 だがしかし、もうひとつ意味があった。
 それは日本が悪いのだが、実力上どうすることもできない、という宣言だ。
 また、事実、日本軍は国民革命軍に協力し、人民解放軍を撃破した。
 その恩義もあるため、蒋介石はさしたる外交上の行動を起こさなかった。
 起こしたのは、第三国である。
 欧州大戦を戦っていた、英仏は日本にアジアで領土的野心があると警戒した。
 アメリカに至っては対日禁輸を打ち出し、7月に日米通商航海条約の破棄を宣言する。
 これは3月に汪兆銘が蒋介石派閥から離脱、南京を首都に新国民党を結成したことに関係していた。
 日本は汪兆銘を、アメリカは蒋介石を、そして、ソ連は毛沢東を。
 中国は異なる国家を後ろ盾に、再び三国時代に舞い戻ったのである。









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