ノモンハン事件-3
1939年8月6日、帝の裁可を得てノモンハン方面全般の指揮を執らせるために第六軍が創設された。 帝はようやく参謀本部が事態収拾のために動いたことに満足する。 持ってきた作戦概要も帝に丁寧に説明されたことで即断された。だが、戦線不拡大を徹底するように厳命させる。 元々第六軍は西部ソ満国境警備の上級司令部として創設計画があった。 このため、戦力の大半は中国大陸に上陸している。 満州鉄道を使えば即時ノモンハン方面へ展開可能だった。 ただし、補給には相変わらず問題はある。 そこは課題とし、古荘参謀総長は参謀本部第一部に解決を命じた。 それと同時に個人的な繋がりを利用して連絡を取り始める。 古荘は己の命が長くないと考えており、この事件解決を持って自身の軍人人生に終止符を打つ覚悟で臨んでいた。 「―――くそっ、こんなはずが・・・・ッ」 1939年8月8日、満蒙国境付近、第二三師団司令本部。 ここで、辻は机を叩いて悔しがっていた。 辺りには誰もいない。 小松原以下司令部要員は偵察に出ていた。 だから、辻は誰の目を気にすることなく腐っているのだ。 「何故だ、何故なんだ・・・・ッ」 打ち続く紛争に終止符を付けるため、彼自らが考案した作戦に則って、日本陸軍は行動した。 結果、遭遇戦であった第一次ノモンハン事件はともかく、万全の準備を施したはずの第二次ノモンハン事件も敗北必至の状況であった。 日本軍の全ての攻勢が頓挫し、兵力の三分の一を失う。 これは近代軍学における全滅を意味し、国境付近における日本軍の戦闘不能を意味していた。 これは忠実通りである。 ソ連は確かに火力と機動力に勝っていた。 (しかし、陸軍の力は歩兵じゃないか!) 歩兵の個人戦闘力は日本が世界最強であり、そんな兵がソ連軍よりも多かった。 与えた損害も敵の方が多かったに決まっている。 「なのに・・・・どうして負ける・・・・ッ」 「―――それは簡単なことだ、辻」 「誰だ!」 この作戦室には誰も入れないよう、従兵に言っておいたはずだ。 「俺だよ」 「武隼・・・・大佐」 辻の目の前に現れたのは、彼が属する統制派の前に立ちはだかる無名派の頭目・武隼時賢だった。 「なぜ、ここへ?」 時賢は新型戦車の開発担当者だったはずだ。 九七式中戦車となったその戦車は、本国に配備されており、このノモンハンには4輌しか配備されていなかった。 「もうすぐノモンハン事件を終結させるための第六軍が投入される」 「第六軍?」 辻が首を傾げる。 時賢は辻の質問に答えなかったが、気になる言葉を口にした。 それは聞いたことがない軍の名称だ。 「陸軍本部は関東軍に事態を収拾させる能力がないと判断し、全く新しい部隊を投入することにしたんだ」 「俺はその第六軍の戦車旅団の長だよ」 「・・・・何?」 「戦車旅団・・・・?」 これまた初めて聞く言葉だ。 「陛下はお怒りだよ。これに慌てた陸海首脳は、本気の一撃をノモンハンに展開するソ連軍にぶつけ、停戦に持ち込むつもりだ」 「・・・・本気?」 まだ呆然としていた辻は、まるで赤子のように聞き返した。 「ああ、本気だ」 時賢が率いる戦車旅団の戦力は以下の通りだ。 2個戦車連隊、1個歩兵大隊を主力とする。 特に戦車連隊は先の第3・4連隊とは違い、完全に拡充されていた。 1個戦車連隊の戦車定数は54輌、それが2個(108輌)に、司令部附きの12輌が加わり、総計120輌だ。 さらに戦車は全て九七式中戦車だった。 関東軍が装備していた歩兵随伴型の短砲身五七ミリ戦車砲ではなく、対戦車戦闘を意識した長砲身五七ミリ戦車砲を搭載している。 また、積載する砲弾も徹甲弾だ。 最大240輌にもなる戦車部隊は、本土生産だけでは足りない。 朝鮮半島でも生産が開始されていたと見るべきだろう。 それでもソ連軍の強大な戦車軍団には対抗できるか、怪しいところだ。 だが、それを補う強い味方がいた。 「この作戦、実は陸海協同の作戦でな」 「海軍、だと?」 信じられないとばかりに辻が目を見開く。 「しかし、ここは・・・・?」 「ああ、海はおろか砲艦が遡上できる大河もない」 「それでも」と時賢が続けた。 「空はある」 「・・・・海軍航空隊」 合点がいったように辻が呟く。 海軍は空母増強と太平洋の航空基地造営に伴う搭乗員の大量確保を始めていた。 その大量の搭乗員育成のため、ノモンハン事件を格好の実戦訓練場にしたのだ。 「九六式艦上戦闘機約100機、九六式艦上爆撃機約60機、九六式陸上攻撃機約40機」 約200機の増援だった。 「本当に新米搭乗員の教育現場なのですか?」 落ち着いたのか、階級が上の時賢に対して辻が敬語で質問する。 「らしいぞ。といっても、この後には実戦配備される連中らしいが」 「いえ、そうではなく、最新鋭機ばかりではないですか」 普通、錬成部隊は二級兵器で構成されている。 さすがに九七式艦上攻撃機はいないようだが、水平爆撃能力は九六式陸上攻撃機の方が上だ。 「ああ、そういうことか」 時賢は気づかなかったとばかりに手を打ち合わす。 「それはたぶん、製造工場の最適化が進んだんだろう」 「最適化?」 「国家総動員法の関係で軍需品の生産が陸海で融通されるようになったんだよ」 「結果、再選効率が上がり、月産辺りの製造数が増した、と?」 「らしいな」 だから、九七式中戦車も陸軍は早期配備できたのだ。 「海軍だけでなく、陸軍の第六軍も豪華だぞ」 時賢は編制表を辻に差し出した。 「こ、これは!?」 それを見て、辻はもう何度目か分からない驚きで目を見開く。 戦車旅団は元より、本隊である第六軍も精鋭だった。 1個歩兵師団と戦車部隊を主力にした2個戦車旅団などの約3万。 武隼が率いるものとは別の戦車旅団はノモンハン事件当初に展開した安岡支隊を基幹にしており、兵装転換も終了していた。 「し、しかし、そんな大部隊を補給することは・・・・?」 最寄りの駅からここまで約200kmだ。 関東軍はこの距離を人馬にて補給していた。 「だ・か・ら、本気だって」 陸軍は各地からトラックを掻き集め、ソ連がこの戦場で行ったような大規模な輸送を行うつもりだ。 陸軍中央にとっても、この紛争は一種の実験場とするつもりなのだ。 「こちらの攻勢限界を見極め、敵が攻勢に出るまで約1ヶ月。この1ヶ月でどれだけ準備できるか。・・・・この作戦はそれに懸かっている」 そう。 まだこれは計画段階の増援だ。 実際に集結できるかどうかは、これからの作戦計画に懸かっている。 それが杜撰であれば、大規模増援は絵に描いた餅になりかねない。 「その作戦計画を立てるために俺は来た」 戦車などの車両に詳しい時賢が現地に赴いて作戦を立てる。 この戦役では、実戦作戦よりも補給作戦の方が重要だ。 用意した戦力を、求めた時期に、必要な場所に展開すること。 勝利の鉄則である。 「辻、手伝ってくれ」 「は?」 失敗した作戦を立てた参謀に向けられた言葉。 「お前は必要な数値の入力を間違えただけだ」 「そこから導き出された答えが間違えるのも当然だ」と続けた時賢は、膨大な資料を辻に渡す。 「数値計算は得意のようだから、な」 「え、えーっと?」 「俺の知り合いの皇族は、こういう時にこう言うと教えてくれた」 コホンと咳払いした時賢は人の悪い笑みを浮かべてこう言った。 「頑張れ」 「・・・・・・・・・・・・了解であります」 大の大人の猫なで声に、辻は顔を引きつらせる。しかし、与えられた大役に胸を躍らせた。 優秀な人間には、少なくとも二種類ある。 それは何もないところから何かを成す本当の天才と、与えられたものから完璧な答えを用意する秀才だ。 前者の手綱を握ることは不可能だが、後者は可能である。 言わば、コントロールできる人間がいるかいないかなのだ。 「しかし、実際の作戦はどうします?」 「それは任せろ」 辻の言葉に、時賢は絶対の自信を滲ませて言った。 「薩摩が戦い方、見せちゃる」 8月攻勢scene 「―――日本の航空部隊が増強されているだと?」 8月15日、ソ連軍ノモンハン陣地。 総司令官を務めるゲオルギー・ジューコフは、航空部隊のスムシュケビッチ少将に怪訝な顔を向けた。 「確かか?」 5日後、ソ連軍は日本軍に対して総攻撃を開始する手はずだったのだ。 「うむ。戦術転換によって五分に戻し、機数によって圧倒していたのだが、この頃敵の数が増えてきた」 「日本本国が動いたか・・・・?」 この頃、ソ連はスパイ活動によって、日本政府が不拡大を支持していることを知っていた。 このため、どこまでしても全面戦争になることはないと判断していたのだ。 「いや、航空隊はいい」 どれだけ敵の機数が増えようと、航空部隊のみでここに集ったソ連軍を撃滅できない。 それは第一次ノモンハン事件の結果でも示されていた。 (問題は増援が航空部隊だけかどうかだ) 「航空偵察の結果で、敵陸上部隊に変化は見られたか?」 「いや、それが・・・・」 スムシュケビッチは唇を噛んだ。 「索敵機が展開する後方の基地が、昨夜に空襲を受けて、な・・・・」 索敵機は朝に前線基地に移動し、給油して再び飛び立つはずだった。 それが夜襲によって失われたのだ。 「後方基地への空爆だと!?」 日本軍が越境爆撃を行ったのは、これまでで一度切りだ。 (何かが変わろうとしている?) 一般的に考えれば、1ヶ月の停滞は、日本軍は再編成をしていた、ということだろう。 だが、再び攻勢に出てこないところを見ると、陸上部隊の再編成が終わっていないということでもある。 (やはり、今、攻勢に出なければならない) 日本の中央は拡大を望んでいなくても、出先機関である関東軍が暴走する可能性も、零ではない。 (そういう輩は少なくなったようだが) 満州事変や二・二六事件の処罰は、これまで陸軍将校が考えていたような甘い処罰ではなかった。 これに驚いた青年将校は軽挙妄動を控えるようになっている。 このノモンハン事件においても、原因は遭遇戦であり、開戦謀略ではない。 「不気味だな」 「・・・・は?」 「いや、何でもない。モンゴル軍に騎兵による索敵を行うように言え。特に敵後方だ」 敵正面は多少の増援を受けたようだが、こちらが攻撃を躊躇させるような数ではない。 今ならば、包囲殲滅することも可能だ。 問題はその包囲を破って逆包囲してくる部隊がいないかどうかだ。 尤も1個師団程度ならば問題ない。 (不気味だが、数が揃ったソ連軍に、敵はない) ジューコフは漠然とした不安を抱きつつも、作戦を停止することはなかった。 1939年8月20日、ソ連軍は予定通りに8月攻勢を開始した。 当時の日本軍前線部隊は北から、フイ高地を守備する第二三師団捜索隊、ホルステン川の北にあるバルシャガル高地を守る歩兵3個連隊(歩兵二六、六三、七二の各連隊)、ホルステン川の南にある第八国境守備隊と歩兵第七一連隊であった。加えて、ノモンハンから約65km南に離れたハンダガヤに第七師団の歩兵第二八連隊があった。 その陣地は横一線に長く、兵力不足のため縦深がない。 防衛線の左右には満州国軍の騎兵が展開して警戒にあたっていたが、防御力は皆無だった。 一方、ソ連軍は歩兵と火砲の数で倍近く、加えて戦車498両と装甲車346両を用意した万全の態勢だ。 ソ連軍の作戦は、忠実通りに歩兵で攻撃して正面の日本軍を拘束し、両翼に装甲部隊を集めて突破し、敵を全面包囲しようとするものである。 左翼の北方軍は、第82狙撃師団第601連隊と第7機械化旅団、第11戦車旅団からなり、フイ高地の捜索隊を攻撃して南東に進んだ。 中央軍は、歩兵4個連隊と1個機関銃旅団(第82狙撃師団の2個連隊と、第36自動車化狙撃師団の2個連隊、第5機関銃旅団)からなり、ホルステンの両岸で正面から攻撃をかけた。 右翼の南方軍は、歩兵3個連隊と機械化旅団、戦車旅団各1個(第57狙撃師団の3個連隊と、第8機械化旅団、第6戦車旅団)からなり、日本の第七一連隊を攻撃してホルステンに向けて北進した。 また、北方軍の北にはモンゴル軍の第6騎兵師団、南方軍の南にはモンゴル軍の第8騎兵師団が付いて警戒にあたった。 だが、これは開戦早々に満州軍騎兵師団と激突し、十分な警戒能力を発揮できない状態に陥る。 それでも左右両翼でのソ連軍の優位は圧倒的で、中央でも火力の優勢を保っていた。 攻撃初日にソ連軍は満州軍の騎兵部隊を蹴散らし、中央の日本軍を半包囲する。 日本軍はフイ高地で敵の攻撃を阻止しただけで、ほとんど無力だった。 ソ連軍総攻撃開始の報を受け、ハイラルにいた第六軍主力が移動を開始する。 しかし、これは航空機の目を封じられたソ連軍には感知できなかった。 地上戦において、日本軍は散発的な抵抗を示すのみで、ソ連軍が戦局を優位に進める。だが、空中戦では日本軍航空隊がソ連軍のそれを相手に勇戦。 夜間爆撃をも駆使した航空撃滅戦に勝利し、ソ連軍の航空隊を再び壊滅させる。 日本軍陸海協同航空部隊は航空戦の合間にソ連軍に対して対地攻撃も行っていた。 陸軍の九七式重爆撃機、海軍の九六式艦上爆撃機による執拗な対地攻撃によって、ソ連軍の装甲部隊は少なくない損害を被っている。 また、海軍の九六式陸上攻撃機による水平爆撃にて、砲兵陣地にも損害が出ていた。 ソ連軍は、思ってもいなかった日本の航空攻撃に驚く。 ソ連軍航空隊の増強は行っていたのだ。しかし、それでも日本軍航空隊を圧倒できなかった。 想定していなかった越境攻撃がダメージを大きくしている。 このままでは地上戦にも影響すると判断したジューコフは、日本軍に対する優位性を失わないために、攻勢を強めた。 一方、日本軍は23日に第六軍司令部が戦場付近に到着する。そして、用意していた反撃作戦を実行に移した。 それはハンダガヤから呼び寄せた第二八連隊と前線から引き抜いた歩兵第二六、七二、七一の諸連隊をあわせて南方で反撃するものだった。 だが、日本軍が前線から兵力を摘出したおかげで、ソ連軍北方軍は日本軍の背後に回った。 日本軍は包囲されたわけだが、北方軍は逆に敵後方で孤立したとも言える状況だった。 「―――全軍突撃!」 24日、日本軍による反撃が開始された。 ソ連は第57狙撃師団第80連隊と装甲部隊で迎え撃つ。 ソ連軍が組織化された装甲部隊を持っているのに対し、日本軍はほぼ歩兵のみで構成されていた。 歩兵では勝っていたが、戦車に対して歩兵で挑むこと自体が間違っている。 そこに現れたのが、日本海軍の艦上爆撃機隊だった。 急降下爆撃にて次々とソ連戦車を撃破していく。 また、正史とは違い、第二八連隊を除く三連隊が同時攻撃を行ったため、南方は大激戦となった。 昼間は航空機、夜中は夜襲に悩まされたソ連軍はジリジリと後退。 これにジューコフは正面から兵力を摘出し、増援に当てる。 さらに日本軍後方に展開していた北方軍に対して、これを攻撃するように命じた。 この反攻作戦を頓挫させれば、ソ連軍は勝ったも同然だからだ。 「―――いたか・・・・」 上空を旋回していた九七式司令部偵察機が翼を振って、敵軍の発見を知らせてきた。 それを見て取った時賢は、信号旗を握りしめる。 「後方の歩兵隊に連絡、敵発見。作戦通りに行動せよ、と」 「はっ」 微速前進していた戦車の横に付けていた騎兵は、敬礼するなり馬首を返した。 「これより、敵北方軍へ突撃する!」 信号旗を振り、時賢は戦車の中に引っ込む。 そう、時賢以下二個戦車旅団は、敵北方軍の側方にいた。 「友軍の爆撃機編隊、上空通過!」 九七式中戦車の装甲に張りついた兵から外の状況が伝えられる。 彼の言葉通り、九七式重爆撃機24機が第六軍の主力とも言っていい、戦車旅団の上空を通過した。 しばらくして、爆音と震動が伝わってくる。 それは敵北方軍向けての爆撃が始まったと言うこと。 (敵司令官もビックリだろうな!) まもなく接敵した2個戦車旅団240輌の日本戦車は、爆撃で混乱するソ連戦車に向けて砲撃した。 この時期のソ連戦車はT-34に代表される重装甲の戦車は配備されていない。 BT-5(正面装甲厚13mm)やBT-7(同15~20mm)、T-26軽戦車(同15mm)、FAI、BA-3、BA-6、BA-10、BA-20(以上、同6~13mm)といった装輪装甲車が主力だった。 これらは重機関銃や速射砲で撃破可能である。 緒戦で苦戦したのも、徹甲弾が不足していたことと圧倒的数的不利だったからだ。 また、装甲と砲撃力全てにおいて、ノモンハンに集った装甲車両では九七式中戦車が最強だった。 「訓練がものを言ったな」 砲身を振り回して射撃を続ける九七式中戦車は、次々とソ連の装甲車両を撃破していく。 随伴した歩兵も、ソ連歩兵を蹂躙する。 兵力的にはソ連軍の方が多いが、勢いは完全に日本軍にあった。 さらには、長い距離を移動してきたソ連軍は疲弊している。 「一気に食い破れ!」 時賢以下2個戦車旅団が北方軍を壊滅させたのは、会敵から3時間後のことだった。 「・・・・これが島津家十八番・・・・釣り野伏せ」 斥候部隊に従軍していた辻は、土煙を上げて南方へと移動する戦車旅団を見ながら呟く。 「これが薩摩の戦いか!」 時賢が立案した反攻作戦は、日本軍主力が南方に反撃をかけ、その隙間に北方軍を誘き寄せてこれを捕捉撃滅することだった。 北方軍は長い距離を行軍することで疲弊し、その目は南方に向いているため、待ち受けていた2個戦車旅団に気付かなかった。 これは伏兵となり、行軍隊形から戦闘隊形に移行することに失敗したソ連軍は、至る所で蹂躙される。 特に戦場最強である九七式中戦車の大量投入が効いた。 これまでと同じ歩兵による突撃では、ソ連軍は持ちこたえただろう。 「しかし、九七式中戦車を初めから南方に投入すればよかったのでは?」 「いいや。ダメだ」 確かに九七式中戦車は強い。 だがしかし、真っ正面から敵軍に挑めば、初戦の二の舞になる。 さらには有力な敵装甲部隊が実力を発揮すれば、苦戦する。 「私は・・・・こういう作戦を立てたかった」 戦陣において、敵軍を蹂躙する作戦。 (だが、無理だな) 辻は時賢に向けて脱帽した。 「しかし、私の頭脳も無駄ではない」 この作戦が実施できたのは、辻が立案した補給作戦が成功したからだ。 本土や朝鮮、満州から掻き集めたトラック、さらには九七式重爆を使った補給により、ソ連軍の攻勢開始前に必要な戦力を全て戦場に届けた。 時賢が切り札と言った航空部隊も、ソ連軍の目を潰し、これらの部隊移動を察知させなかった。 特に2個戦車旅団を隠蔽できたのは、勝利に最も貢献したと言えよう。 「しかし、これでも勝てない」 そう。 今回の反攻作戦は、北方軍を撃破し、南方軍と五分の戦をするためのものである。 日本軍正面はこの隙に後退。 ソ連とモンゴルが主張する国境線よりも東側に移動するためのものだった。 戦線を整理し、さらなる戦いに備えるものである。 つまり、これはノモンハン事件という戦役における、決戦ではなかったのだ。 結局、1939年9月16日にモスクワにて停戦が成立した。 それまで両軍は小競り合いこそしたが、主力を動かすことはなかった。 ソ連は補給態勢がまだ盤石ではなかったことと九七式中戦車が手強かったことで動かなかった。 日本は不拡大の陸軍中央の命令と、欧州情勢の激変による政権交代が原因だった。 欧州情勢の激変とは以下の出来事である。 8月23日、独ソ不可侵条約。 9月1日、独がポーランドに侵攻。 9月3日、英仏、独へ宣戦布告。 そう、第二次世界大戦の勃発である。 世界は、戦争の時代へと突入したのだ。 |