ノモンハン事件-2
第一次ノモンハン事件後、関東軍では再度ノモンハンへ出撃することを検討していた。 特に関東軍参謀たちが第二三師団だけでなく、第七師団をも投入する大規模な計画を立案している。 その"検討"が"決定"に変わったのは、6月19日のことだった。 17日から始まったソ連空軍による空襲。 19日の地上部隊による小規模偵察攻撃。 これらを受け、第二三師団長・小松原中将よりハルハ川付近の敵軍を撃滅すべし、という意見具申が届いたのだ。 このため、意見具申と同日に関東軍司令部第一課にて具体的な作戦計画についての協議が実施された。 作戦課長・寺田雅雄大佐は慎重論を述べたが、辻が猛然と食い下がり、攻撃を主張。 他の参謀も辻に同調したため、寺田の慎重論は却下され、攻撃が決定する。 辻はこの会議の結果を踏まえ、対外蒙作戦計画要綱をまとめた。 しかし、使用兵力の点で関東軍司令官・植田謙吉大将は小松原のプライドを慮って第七師団の投入を取りやめさせる。 結果、第七師団から一部の部隊を第二三師団に編入するという小規模な増強に留まった。 ソ連軍が大幅に増強されたのとは対照的だが、日本軍もついに1個師団を投入する大規模反撃を計画したのである。 21日にはこの作戦計画が参謀本部に伝えられた。 この時点において、関東軍は上部組織である参謀本部に対して忠実であり、参謀本部もまじめにこれを検討している。 検討は陸軍省を交えた大論争となった。 軍事課長・岩畔豪雄大佐や西浦進中佐らは事態拡大時の収拾方法もなく、大兵力を投入するほどの意味もない国境紛争に兵を損なうのは容認できないと主張している。 だが、作戦には戦車第三連隊、第四連隊が投入される予定となっていた。 元独立混成第一旅団の主力戦車部隊である。 これらが投入された場合、日本陸軍史上初の大規模戦車部隊戦闘となり、貴重な戦訓が得られるはずだった。 また、航空部隊においても貴重な実戦経験の場であり、これらを目的に裁可される。 参謀本部もソ連軍の充実具合を把握していなかったのだ。 「何はともあれ、とりあえずやってみろ」というおざなりな返答だったが、日本軍によるノモンハン再出撃が決定する。 これにて両軍が望んだ第二次ノモンハン事件の火蓋が切って落とされた。 「―――畑、どういうことか説明せよ」 1939年6月27日、大日本帝国首都――東京都皇居にて、帝が侍従武官・畑俊六陸軍大将を睥睨した。 玉座の肘置きに左肘を預け、左拳で頬杖を付く帝の前で、畑が土足の場にも関わらず平伏している。 (やってしまいましたね) 嘉斗はその光景を兄――帝と畑と嘉斗で正三角形ができあがる位置で眺めていた。 「朕は戦線不拡大を指示したよな?」 「はっ。陸軍省・参謀本部一同、関東軍には口を酸っぱくして言いつけましたが―――」 「関東軍は聞かずに越境攻撃をしたと?」 畑の言葉を遮って帝が発言すると、畑は黙って再び額を床にこすりつける。 本日27日、関東軍に属する3個飛行戦隊がモンゴル領内のソ連軍基地――タムスクを攻撃した。 報告してきた戦果は撃墜98、大破18、中小破38の合計149機という大きなものだ。 だが、報告を行った関東軍作戦課長の寺田大佐に対し、報告を受けた参謀本部作戦課長・稲田正純大佐は同期である寺田に対して怒鳴り散らした。 それだけ関東軍の越境攻撃は危険な行為なのである。 まず、国内的には統帥権侵犯だった。 許可ない越境攻撃は陸軍刑法第三十七条に該当する犯罪で、死刑または無期にあたる重大な犯罪である。 満州事変の折、当時の朝鮮軍司令官・林銑十郎が関東軍の求めに応じて独断で越境した。 当初は『越境将軍』と逆に持て囃されたのだが、帝の怒りを買って軍法会議を経て死罪となっている。 今回は参謀本部が「モンゴル領内の爆撃は適当ならず」と自発的中止を促していたにも関わらず、だ。 最悪、関東軍幹部だけでなく、ノモンハン地域に展開した全ての将校が処罰の対象になりかねない。 このため、帝の覚えめでたい畑が報告に来て、どうにか穏便な処分で済ませようとしていた。 「畑、このことを知ったソ連、そして、他国は如何様に思うか?」 「そ、それは・・・・」 畑が気の毒になるほど脂汗を流し出す。 (兄上のお怒りも尤もですね) 国内問題はまだいい。 本当の問題は国際的な影響だった。 ただでさえ日本は満州国を巡る問題で国際的に孤立しつつあり、特に軍事行動は慎まなければならない状況だ。 「満州国の後はモンゴル国か? と他国は思うだろう。―――なあ、嘉斗」 (ここで振るんですか!?) 内心でツッコミを入れつつ、嘉斗が呼ばれたわけを理解した。 このような国際政治の思惑は、世界に知り合いが多い海軍の中で、特に情報を司る部門に属する嘉斗が詳しいのだ。 「ソ連は元より、中国とアメリカは騒ぎましょう」 当事国であるソ連。 満州国領土の元の保有者である中国。 最近何かと日本に敵対的なアメリカ。 その他ヨーロッパ諸国で何も懸念を示さないのはドイツとイタリアくらいだ。 イギリスもソ連と仲が悪いので、内心では拍手喝采だろう。しかし、表面上は不快感を示すに違いない。 「国際的孤立を助長する動きは断じて看過できないですね」 世界三大海軍国であろうと、その動力源である石油の大半を輸入に頼る日本国だ。 瞬く間に干上がってしまうだろう。 そうなれば大陸権益など紙くずに等しい。 「関東軍司令官を譴責するか、何らかの処分をすべきである」 嘉斗の説明に大きく頷いた帝が畑に言った。 それに無言で頷いた畑は敬礼して回れ右する。しかし、関東軍の作戦は進み、その詳細を報告に来た中島鉄蔵参謀次長が参内した。 「現地は大戦果を喧伝しています」 「それはどうでもいい」 硬い表情で報告した中島に、全身から覇気を募らせながら帝が言う。 「外蒙を無断で爆撃した責任は誰がとるのか」 「・・・・・・・・・・・・まだ作戦中ですので、終結した時点で、必要な処置を講じます」 この答えは、参謀本部が結果的に関東軍の独断専行を容認したことを示していた。 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 現場ではない後方では何もできない。 それは帝も理解していた。 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・将来もこのようなことは度々起こらざる様注意せよ」 帝は腕を振り、追い払うように中島に退出を促す。 それを見て中島が敬礼し、謁見の間を出て行った。 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・はぁ~」 退出した中島を見て、帝がいすの上で姿勢を崩す。 「兄上、臣下はまだいますよ」 「近衛はよい」 その言葉を聞き、近衛たちは苦笑を交わした。 彼らは陸軍軍人ではなく、宮内省が雇用する一騎当千の魔術兵たちだ。 国民が知らない天皇家の立場を知ることができるものたちでもある。 「嘉斗、海軍はどうだ?」 「ノモンハンまで海軍は出張っていませんし、影響できません」 「航空隊があるだろう?」 「・・・・味方の飛行機を撃墜しろというのですか?」 「・・・・無理か・・・・」 そうなれば近代軍隊としての日本軍は崩壊する。 「いっそ、朕がノモンハンに赴いて責任者を断罪するか」 「それはお止めください」 嘉斗は本気でため息をついた。 帝の怒りに触れた参謀本部は関東軍に一定の歯止めをかける必要に迫られていた。 大急ぎで作成した『大陸命320号』は昭和天皇の裁可を得る。 それは関東軍の役割を規定し、『大陸指491号』で関東軍の作戦範囲を決定した。 1. 地上戦闘行動は概ねブイル湖以東における満州国外蒙古境界地区に限定する。 2. 敵根拠地に対する航空攻撃は行わない。 後日、この大陸指に対する補足が参謀本部から関東軍に示されたが、その中に問題の一言があった。 『一時国境外に行動する件は、常続的権限としてのご裁可は得られないが、万やむを得ない場合は当方(参謀本部)でもそれ相当の配慮をする所存である』 これはタムスク爆撃で昭和天皇を激怒させた越境爆撃については明白に禁止していたが、陸上部隊の越境攻撃には含みを持たせたものだった。 結局、この補足のために、関東軍参謀が計画していた陸上部隊による越境攻撃を中止することなく、実施される運びとなる。 むしろ、航空攻撃が禁止されたからこそ、陸上攻撃計画は歪となってしまった。 それだけでなく、辻ら関東軍がソ連軍の戦力を過少と見積もっている。 だが、日本軍自身もかなりの戦力を出したため、参謀本部はその勝利を疑っていなかった。 関東軍暴走scene 「―――これで完璧である!」 1939年6月30日、満蒙国境――ハルハ川近郊。 ついに日本軍はソ連軍に対して攻撃を開始した。 作戦を担当した辻が自信満々に胸を張る中、戦車第一軍団を初めとする部隊が動く。 その快感に彼は体を震わせた。 今回出動する部隊は先の第一次と同じく第二三師団を主力としている。だが、前回とは質・規模共に大幅に強化されていた。 総計23,953名(輜重隊等後方支援部隊も含む)。 詳細は1個師団(第二三)、2個歩兵連隊(第七師団所属)、戦車2個連隊、他に砲兵、工兵、満州騎兵。 砲戦力は124門(内、速射砲32)、戦車73、装甲車19。 特に、先に述べたとおり、主力戦車部隊である第三・第四戦車連隊が参加しており、一作戦に投入される戦車数としては過去最大だった。 この戦車連隊は安岡正臣中将が率い、他に歩兵第六四連隊、自動車化部隊の歩兵第二八連隊第二大隊、独立野砲第一連隊、砲兵第一三連隊第一・第二大隊、工兵二四連隊、配属高射砲3個中隊の合計6,000名がひとかたまりとなって動く。 これを司令官の名を取って、安岡支隊と呼んだ。 「日本陸軍の真価は運動戦である!」 運動戦――機動戦とも言う、行動的なドクトリンを日本陸軍は採用している。 その理念の戦車部隊は中核を担っていた。 歩兵も強いが、歩兵は決戦戦力なのだ。 まずは機甲部隊で敵に穴を開けることが重要と考えた。 それを果たすべく、安岡支隊に命じられた作戦は、典型的な迂回・包囲戦術だ。 ハルハ川を渡河して西岸へ進出、敵軍の後方に回り込む。そして、正面から歩兵を中心とする部隊が敵軍を殲滅する。 単純明快でわかりやすい作戦だった。 因みに歩兵部隊は第二三師団長・小松原直卒の歩兵第七一連隊、第七二第一・第二大隊、砲兵第一三連隊第三大隊、工兵第二三連隊、歩兵第二六連隊、捜索隊、9個配属高射砲中隊の合計7,500だ。 これは小松原兵団と呼ばれていた。 (・・・・本来なら、ですがね!) 辻は高揚していた気分をやや下げながら、ついでの肩をもすくめる。 辻が考案した作戦は第二三師団の架橋資材が心許なかったために作戦が寸前で変更されたのだ。 (全く、補給が滞っているなど言語道断です) そもそも第二三師団に渡河戦闘を想定していなかったのだから、これは関東軍司令部の責任だ。 というか、日本政府自体が不拡大なのだから、第二三師団が資材を持っていないことは当たり前なのだ。 それを辻は現場司令官の怠慢と考えていた。 (まあ、それでも完璧なのです) 辻は改めて目の前の机に広げられたハルハ川近郊の地図を見下ろす。 第二案。 渡河するのは小松原兵団であり、それが敵軍の退路を遮断。 安岡師団は東岸で北方より敵を攻撃、南方のハイラースティーン川(ホルステン川)の岸に追い詰めて殲滅する。 「―――なかなかにしぶとい・・・・」 7月5日、辻は司令部にて歯がみしていた。 日本軍は作戦に立て直しを強いられている。 6月30日より始まった戦闘は、当初こそソ連軍に対して優勢に戦いを進めた。しかし、敵砲戦力が予想外に強力だった。 安岡部隊は史上初の戦車による夜襲を成功させるなど奮闘したが、戦車第三連隊が戦力を喪失するなど多大な被害も受ける。 ソ連軍の動きが素早かったため、東岸の部隊が増強されてしまった。 攻勢は停止し、敵の猛攻を押し返すので精一杯だ。 一方、渡河した小松原兵団も5日に東岸へ撤退した。 こちらも当初は優勢であり、東捜索隊壊滅に寄与したKHT-26戦車を火炎瓶の肉薄攻撃で撃破。 また、再び九四式37mm速射砲も絶大な威力を発揮している。 その後の装甲部隊だけによる反撃も撃破。 日本軍は戦車77、装甲車36を1日で破壊したが、進撃は停止してしまった。 最も前進した歩兵第二六連隊は渡河地点から3km先で多数の装甲車両を撃破したが、所属する第一大隊が壊滅、大隊長と中隊長が戦死している。 西岸確保が見込めなくなった時点で日本軍は反転し、善戦を続ける安岡支隊と合流することに決した。 西岸の戦いで約800名の死傷者を出したが、まだまだ戦力は残している。 だから、東岸にいる敵だけでも殲滅しようとしたのだった。 「総攻撃しかないか・・・・」 安岡が地図を見下ろしながら言う。 「ああ、ぐずぐずしていると西岸の敵もこちらに渡ってくるだろう」 安岡の言葉に小松原も頷く。 「と、なればこれは如何でしょうか!」 上役ふたりの「総攻撃」という言葉だけで、作戦を考えついた辻は持っていた鉛筆の先で地図を示した。 「戦車部隊と砲兵の支援下で歩兵第二六・六四・七一が主攻正面を担当し、七二が大きく迂回して敵陣地を挟撃する」 これも日本軍ドクトリンらしい運動戦である。 小松原と安岡はこれに対し、やや修正を加えて『作命甲112号』として発令した。 (完璧だったのに、どこまで私の足を引っ張るのだ・・・・ッ) ソ連軍は5日に日本軍が体勢を立て直す前に安岡支隊を攻撃。 安岡支隊はこれを撃退したが、これまでの戦闘に蓄積された損害が大きく、関東軍司令部の顔面が真っ青になる。 完全喪失が30輌を超えたのだ。 このため、6日に「後方支援部隊の位置まで転進し、以後の行動まで準備せよ」と命令が下り、総攻撃が延期となったのだ。 結局、安岡支隊は10日に戦場を後にする。 安岡支隊は、戦車第3連隊は343名の兵員の内、吉丸連隊長を含む47名が戦死して戦車15輌を喪失、戦車第4連隊は561名の内28名戦死して戦車15輌喪失したのだ。 仕方なく小松原兵団は7日より大規模夜襲に切り替えた。 また、戦車部隊はいないが、砲兵部隊も夜襲に参加。 効果的な砲撃で第149自動車化狙撃連隊長・レミーゾフが砲弾によって四散している。 日本軍は奪った陣地を確保することなく、翌朝には原点復帰しており、ソ連軍の砲兵は活躍できなかった。 その恐怖からソ連軍は同士討ちが起こるほど混乱の極みに達する。 ジューコフは増援部隊を繰り出すもその恐慌は収まらず、かえって損害を増やすだけだった。 そんな戦果を上げた日本軍も当然無傷では済んでいない。 それどころか徐々にその傷跡が大きくなっていた。 その損害は死傷者2,122名(内戦死585名)を数え、戦闘部隊の損耗率は23%に上った。 中でも第一次ノモンハン事件で用兵を叩かれた山県の第六四連隊は戦死107、負傷221で損耗率は33%と一番高い。 これは彼の敢闘精神の表れだったが、壊滅的被害とも言えた。 戦術的に成功した夜襲だったが、戦線を押し上げることはできていない。 夜襲開始時は楽観していた関東軍も、この事態に焦りを感じていた。 12日に夜襲終了、14日には錯綜地から撤退し、日本軍は戦線整頓を実施する。 以後、日本軍は大砲撃戦をソ連と演じるも、質・量共に上回るソ連軍砲兵陣地を破壊することができなかった。 25日には準備した砲弾を撃ち尽くし、砲撃戦は日本の敗北で終わる。 ここに、第二次ノモンハン事件は膠着状態に陥った。 6月30日~7月25日までに約4,400名の死傷者を出しており、日本軍は戦力が枯渇しつつあった。 一方、ソ連軍は約7,000名の死傷者を出している(諸説あり)。 そもそも日本軍が過小評価していたソ連軍の実戦力は、歩兵12,547名、戦車186輌、装甲車266輌、火砲109門、航空機360機だ。 兵数こそ日本軍が勝っていたが、その他は圧倒されていた。 この戦力を相手に敵の方が被害が大きいことは、日本軍の強さを示すものである。しかし、その強さはノモンハン事件を勝利に導けるほどではなかった。 関東軍は満州全域から4,000名の増援を送ることを決めたが、ソ連はそれを遙かに上回る増援が続々と到着している。 第二次のモンハン事変は、まだまだ終わる気配がなかった。 「―――ダメです。関東軍、止まりません」 1939年8月4日、参謀本部。 その本部長室に、絶望を伴う報告が入った。 「やはりか・・・・」 次長である中島が頭を抱えて呻く。 25日に関東軍は戦線整理した。しかし、ソ連軍がハルハ川東岸に展開している以上、これを排除しなければならないと報告してきている。 それは分かっているが、帝は話し合いによる解決も提示されていた。 すでに外務省が動いている中、再び戦闘に発展すれば帝が激怒することは必至である。 宮中の噂では帝が近衛武官を連れて直接止めに行くとまで噂されていた。 「古荘参謀総長、如何なさいましょうか」 忠実ではノモンハン事件時の参謀総長は閑院宮載仁親王である。しかし、この物語では二・二六事件の不手際から交代していた。 そのために古荘幹郎陸軍大将が参謀長に付いている。 彼は熊本県出身で、日露戦争では近衛歩兵第四連隊附として出征・戦傷を受けた。 以後、軍政畑で省部の中枢を進み、二・二六事件では杉山元参謀次長(当時)と協力して事態の収拾を図った。 この時に事件の責任を負って陸軍次官を辞任したが、航空本部長・台湾軍司令官などと歴任する。 その後は中国戦線に参加してつい先日の1939年5月に陸軍大将に昇進すると共に参謀総長に就任したのだった。 経歴的に親旧長州閥(山県・田中)、出身的には武隼時賢率いる無名閥に近い。 だが、参謀本部第一部長時代に見た皇道派・統制派の勢力争いに辟易しており、特定の派閥には属さない中立を貫いていた。 過去に脳溢血の発作を起こしており、体調不十分の時にある。 先に第二次ノモンハン事件勃発の報告で中島が参内したもの体調の問題だった。 「中島君、御上は戦線不拡大、現場は敵軍をハルハ川東岸から追い出したい、それで間違いないか?」 「間違いありません。関東軍が申す通りハルハ川東岸のソ連軍は追い払わなければなりません」 「それはハルハ川を国境とするためか?」 「その通りです」 中島の返事を受け、古荘は顎に手を当てて考え始めた。 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 考える。 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 考える。 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 考える。 「あ、あの・・・・参謀総長?」 考えたまま体調不良になったのではないかと中島が心配し始めた時、古荘が顔を上げた。 「よし、中島君、新軍を作ろう」 「はいぃ!?」 人事上作戦担当にありながら、その頭脳を使えなかった俊才が導き出す。 それは組織というものを崩壊させかねない荒療治だった。 |