ノモンハン事件-1


 

 ノモンハン事件。
 1939年5月から9月にかけて、満蒙国境で起きた、日ソの国境紛争である。
 満州国建国によって、モンゴルは国防でソ連の援助を受けるようになる。
 当然、日本軍は満州国の援助を行ったため、日ソ両軍は満蒙国境にて接することとなった。
 当時、ソ連の首脳だけでなく、多くの国民が日本への復讐を望んでいた。
 日本が列強に飛躍した日露戦争によって、ロシアは落日の帝国となる。
 その後継としてロシアの大地を継承したソ連は、軍備拡張を続け、ついには極東において、日本を脅かせるほどまで成長した。
 日本が中国と講和したのも、ソ連の存在があったからである。
 蒋介石が率いる国民党政権は、毛沢東が率いる中国共産党を相手にしていた。
 このため、潜在的味方である蒋介石と講和、その目を北に向かせる。
 1938年には張鼓峰事件が勃発、多数の死傷者が出た。しかし、時期尚早を理由に、戦線不拡大を貫いた政府に従い、戦域を担当した朝鮮軍は矛を収める。
 これに不満を持ったのが、関東軍である。
 関東軍は満州事変以来、規模が縮小されていた。しかし、対ソ連を重視した陸軍は再びこれを増強する。
 これらの焦点となったのは、両国の保護国家である満州国とモンゴル国の国境係争地――ハルハ川付近だった。
 満州国建国以降、両軍はこの地域でしばしば小競り合いを起こしている。
 これらは小規模だったが、次第に両国の思惑、両軍の規模、何より現地部隊の意向で少しずつ坂道を転がり始めた。
 そして、1939年5月11日、満蒙両軍のパトロール部隊が特に大規模な遭遇戦を交わす。
 これをきっかけに、日ソ両軍が動き出した。
 俗に言う、第一次ノモンハン事件の始まりである。






第一次ノモンハン事件scene

「―――敵襲!」

 1939年5月29日モンゴル共和国-満州国国境係争地――ハルハ川東岸付近。
 ここに国境紛争解決のために日本軍第二三師団の師団捜索隊――東八百蔵中佐が指揮――が展開していた。
 モンゴル軍来襲を受け、第二三師団長・小松原道太郎中将は第六四歩兵連隊第三大隊と連隊砲中隊の山砲3門、速射砲中隊の3門合わせて1,058名、連隊捜索隊220名、輜重部隊340名など、合わせて1,701名と満州軍騎兵464名を国境へと派遣する。
 この部隊は第六四連隊長・山県武光大佐が指揮を執ったため、山県支隊と呼ばれた。
 小松原は出撃前の山県を訪ね、「28日払暁を期し、ハルハ河右岸に進出中のモンゴル軍を攻撃し、右岸にて捕捉・撃滅せよ」という命令を下した。
 この作戦は主力を山県が直卒して北から進み、東と南に満州軍騎兵と少数の日本軍歩兵が展開する。
 現地のハルハ川には渡河点が3つあり、南北は先の部隊が、中央の橋を東捜索隊が先行して敵中を突破して封鎖し、陣地を構築。
 包囲した敵軍を殲滅するという、分進合撃の包囲殲滅戦を企図していた。
 この作戦に従い、28日に敵軍の後方へ突破、その後に陣地を築いて敵退路を脅かしていたのである。
 捜索隊とは騎兵連隊を前身に持つ部隊であり、騎兵の機械化部隊として、最近設立された最新鋭部隊だった。
 ただし、1939年時点において、1個騎兵中隊は残っており、装甲車中隊も九二式重装甲車を持つだけの貧弱な部隊だ。
 唯一の装甲車両である九二式重装甲車は全長3.94m、全幅1.63m、全高1.87m、重量3.5トン。
 装甲車と言いつつ、実質は豆戦車であり、この時点で旧式というべき装甲車両である。
 しかも、それがたった1輌しかなかった。
 敵中を突破して包囲したと言えば聞こえは良い。しかし、予想に反した優勢な敵軍を相手にして、たった157人しかいない部隊はあっという間に窮地に立たされた。
 増援要請は届いていたが、師団本部は元より山県支隊も増援を送る余裕はなかった。
 結局、東捜索隊は翌朝になっても満足な援護も得られず、大損害のまま翌日に突入している。
 その損害は中隊長2名を含む戦死19、重傷40、軽傷32の死傷者91名にも登り、その損耗率は57.7%だった。
 これは壊滅と言って良いのだが、生きている人間がいる限り、ソ蒙軍は攻撃の手を緩めることはなかったのである。

「中佐、やはり・・・・」

 東に対し、師団参謀である岡少佐が声をかけた。
 「やはり」というのは、昨日の意見具申――撤退を促す言葉である。

「ならん」

 それに対し、東は昨日と同じく首を横に振った。

「昨日言ったとおりだ」

 そう答えた東は双眼鏡で敵砲兵陣地を睨みつける。
 昨日に彼が言ったのは、以下の訓示だ。

『この方面で、日本軍が始めてソ連軍と戦うのだから、ここで退却しては物笑いの種になる。最後の一兵まで、この地を死守して、この次は靖国神社で会おう』

 全滅必至の死守を命じていたのだ。

「しかし、砲撃だけされては反撃のしようも・・・・」

 敵軍は接近することなく、榴弾砲と速射砲での砲撃を加えている。
 その砲弾数は日本軍の常識を覆すものだった。
 日本軍ならばとっくに弾切れし、白兵突撃に移っている段階だ。
 それでも敵はひたすら撃ってくる。
 まるで真綿を締め上げるかのような攻撃だった。

「―――九二式重装甲車、撃破されました!」
「・・・・そうか」

 東が一瞬息を詰め、その後に息を吐き出すようにして応じる。
 温存していた虎の子も、何ら活躍することなく砲撃で撃破されてしまった。

「T-26戦車が向かってきます!」
「対戦車戦闘用意!」

 砲撃支援を受けながら5輌の戦車が向かってくる。
 その車種はT-26であり、45 mm砲を持つ軽戦車だった。
 対する東捜索隊は戦闘開始以後、幾度も敵攻撃を撃退したホ式13mm高射機関砲だけだ。

「後方に歩兵も続いています!」

 ソ連軍第149連隊の1個大隊だ。

「・・・・T-26にしては形状がおかしくないでしょうか?」

 岡が手元にある敵戦車の写真と見比べながら言う。

「どこが違う?」
「砲身が右寄りに付いています。・・・・もしかすれば双銃型の改良型かもしれません」
「砲を減らして何の効果が?」
「・・・・分かりません」

 東の疑問に、岡も首を捻りながら両手を挙げるしかなかった。

「まあ、一当てすれば分かるだろう」


 実際、分かった。
 だが、それは一当てする前に、だった。


「火炎放射だったか!?」
「ソ連も考えましたな・・・・ッ」

 東は炎上する陣地を見て歯がみした。
 傍にいる鬼塚曹長も悔しそうに言う。
 向かってきた戦車はただの戦車ではなかった。
 化学戦車――所謂、火炎放射戦車――だったのだ。
 砲弾ではなく、炎を噴き出すこの戦車の攻撃に、東捜索隊は堪らず陣地を放棄していた。
 すでに29日も午後に入っているが、未だに増援の気配はない。
 14時に負傷者の脱出を命じていたが、どれだけが脱出できたのだろうか。

「して、中佐、何のご用でしょうか?」

 鬼塚は東に呼ばれてきたのだ。

「これを山県大佐に届けてくれ」

 東は側近から一冊の報告書と封筒を渡した。

「これは・・・・」

 表紙にある文字を見て、鬼塚は息を呑む。
 戦闘経過報告書と遺書。
 それが手渡されたものの正体だった。

「残りは突撃し、陣地を取り返す」
「無茶です!」

 残った兵員はわずか20名ほどしかいない。
 頼もしかった重機関銃ももうなく、全滅は必至だった。

「ここで一矢報いなければ散っていった者たちに申し訳ない」

 東は血で汚れた頬を、泥で汚れた袖で拭う。そして、血の代わりに泥が付いた頬のまま、きれいな敬礼を鬼塚にした。

「・・・・任務、承りました」

 上官から敬礼されては応えぬ訳にはいかない。
 涙をこらえ、鬼塚は残る味方に背を向けた。そして、自身の馬にまたがると、振り返ることなく戦場を後にする。
 同日18時、東中佐以下20名はソ連軍に突撃して全滅した。



 東捜索隊の全滅以後、山県支隊は撤退に動いた。
 命令自体は28日に師団長である小松原中将より届いていたが、戦線離脱が難しいと判断した山県が敵に一矢報いることに固執したのである。
 だが、東捜索隊の全滅を受けて撤退するところに、関東軍参謀がその支隊本部を訪れることでやや事情が変わった。

「―――いったいなんたることか!」

 東捜索隊の全滅で悄然とする支隊本部から金切り声が上がる。
 声の主は関東軍参謀――辻政信少佐だった。

「あなたの用兵のまずさによって東中佐を見殺しにした!」

 少佐だというのに、辻は山県に詰め寄って怒鳴り散らす。

「捜索隊は今後の日本を支える精鋭ですぞ! さすがは精鋭という戦いぶりを発揮したのに、あなたは何をしていたのだ!」

 東たちが奮戦したのは間違いないが、救援要請は届いていた。
 一応、補給部隊は出したのだが、届いていない。
 それでも撤退命令も出さなかった山県の用兵は、確かに不適切な点はあった。
 また、捜索隊という部隊の特徴からすれば陣地戦闘をするべきではない。
 作戦を立てた小松原も機甲部隊の特徴を理解していなかったと言えよう。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 責められても文句の言えない状況に山県は無言を貫いていた。だが、それも辻が次の"命令"を下した時に崩れる。

「今夜半、支隊を挙げて夜襲を決行し、東捜索隊の遺体収容をしなさい」
「何だと!?」

 辻の言葉に山県は驚愕した。
 東は敵に包囲されて散ったのだ。
 その場所に行けというのは山県たちに死ねと命じているのに等しい。

「勇者たちの遺体を回収するのに何の躊躇いがあるのか!」

 それでも辻は収まらない。

「新京に帰ったら山県支隊は大夜襲敢行して敵を国境線外に撃退したと発表する」
「・・・・・・・・・・・・」

 あまりの物言いに、山県は口を開け閉めするだけで何も言えなかった。



 30日未明、山県と辻を含む約600人が旧東捜索隊陣地へ夜襲を敢行した。しかし、ソ連軍の姿はなかった。
 ソ連軍は軍司令部の命を受け、ハルハ川西岸へと撤退していたのである。
 山県たちは戦死者の遺体を収容して撤退した。
 30日にはモンゴル第6騎兵師団の東岸侵攻などの戦闘自体は続いたが、航空部隊や機関銃部隊によって撃退に成功する。
 ソ連軍は日本軍の大規模増援に備えて西岸に防衛線を移し、撤収。
 辻が「3人で1人の遺体を担げ」と命じる一面もあったが、山県たちは一兵も失うことなく、決死の遺体回収作戦を終えた。
 小松原も31日にハルハ川近郊からの撤収命令を出し、両軍の戦闘は終わった。



「―――戦闘停止、か・・・・」

 31日、日本陸軍航空基地で、篠原弘道航空兵准尉はほっと息をついた。

「何だ、物足りないのか?」

 篠原が属する飛行第11連隊長・野口裕次郎大佐がからかうように言う。

「ウチのエースだろう?」
「よしてください」

 篠原は5月27日の初陣から28日にかけて、1日で10機を撃墜。
 史上最速のエースパイロット入りをしていた。

「ソ連軍も馬鹿にはできませんよ」

 激戦を交わした陸戦と並び、航空戦も激しく交わされている。
 参加したのは日本陸軍の九七式戦闘機とソ連のI-153やI-16戦闘機。
 九七式戦は最新鋭機であり、運動性と最高速度で勝っていた。しかし、武装と急降下速度に劣っていた。
 投入した機数もほぼ互角だ。
 しかし、戦闘自体は一方的であり、ソ連軍の航空機を数十機撃墜していた。
 一方で日本軍の損害は軽微で済んでいる。

「ほう?」
「敵は編隊を組んでいて、これを崩さない限り撃墜できません」

 事実、篠原は一気呵成に突撃して撃墜していた。

「ですが、単機でこの方法を採るのは難しい」
「こちらも編隊飛行に切り替えるか?」
「慣れない機動はさらに混乱を招きます」
「・・・・訓練しかないか・・・・」

 野口は口元に手を当て、目を閉じる。
 きっと何かを考えているのだろう。

(意見具申、かな?)

「よしわかった。中央には貴様の意見も載せておこう」
「はっ。恐縮です!」

 まさか採用されるとは思っていなかった篠原は、慌てて敬礼した。



 第一次ノモンハン事件の総括として、戦場を視察した辻によって以下の報告がなされた。

 報告1.『外蒙騎兵がこんなに戦車を持っていようとは誰も思ってはいなかった』

 これは満蒙国境に展開するソ連軍の思わぬ近代軍隊ぶりに驚いたという感想だ。しかし、この時期の日本陸軍全体に共通する認識である。
 以後、陸軍中央は対ソ連のためにさらなる機械化を進めるようになった。

 報告2.『戦場に遺棄された外蒙兵の死体には食糧も煙草もないが、手りゅう弾と小銃の弾丸は豊富に持たされていた』

 これは敵の補給充実ぶりを示しており、それを支えたのがトラックだと気づいた陸軍中央はその効果について参謀本部に研究させている。

 報告3.『第二三師団の左右の団結が薄弱であることと、対戦車戦闘の未熟さであろう』

 これは山県大佐の用兵未熟、対戦車戦闘に対する未知を指摘している。
 しかし、前者はそもそも戦力不足であり、山県というよりも敵戦力を誤認した小松原中将にも責任があった。
 何より砲兵等の支援戦力が少なかった。
 このため、東は重機関銃や擲弾筒で戦うしかなかったのである。
 また、第二三師団自体に十分な対戦車兵器を準備できなかった関東軍自身にも責任があった。しかし、戦闘停止後も関東軍はこれに対して何の対策も講じていない。


 辻自身がこのような報告を残してはいるが、関東軍は東捜索隊の全滅を秘匿し、大本営に対して過大な報告を行った。
 それを信じた大本営は30日に「ノモンハンに於ける貴軍の赫赫たる参加を慶祝」と祝電を送っている。
 確かに、第一次ノモンハン事件の両軍の損害は以下の通りだった。

 日本軍。
 戦死・行方不明者171(内東捜索隊105)、戦傷119で合計290名。
 九四式37mm速射砲1門、トラック8台、乗用車2台、装甲車2輌。
 ソ蒙軍。
 戦死・行方不明者171(内モンゴル軍33)、負傷198名の合計369名。
 戦車・装甲車13輌(内2輌はモンゴル軍のBA-6)、火砲3門、トラック15台。

 損害だけ見れば戦力に勝っていたソ蒙軍の方が大きい。
 如何に東捜索隊が奮戦したかが分かる。
 それでも陸戦だけ見れば日本の敗北と言えた。

 また、同時期に別の満ソ国境――アムール川付近でも紛争が勃発していた。
 満州軍の1個騎兵中隊と砲艇2隻が全滅した東安鎮事件である。
 だが、両軍ともノモンハン事件に注視するために静観。
 特に関東軍が反撃を自重したため、それ以上の戦闘には発展しなかった。
 こうして、第一次ノモンハン事件は終結したのである。






ソ連軍scene

「―――無様だな」

 30日、ソ連軍陣地にて、中央より派遣されたひとりの軍人が吐き捨てた。
 ソ連軍にとってのノモンハン事件は、事実上の勝利であろうとも戦略的に見れば敗北だ。
 敵に対して優勢な戦力を持ちながら、作戦目的を達することができなかったのだから。
 ソ連軍からすれば、日本軍は少ない戦力で敢闘し、多大な犠牲を出しつつもソ連軍の侵攻を押しとどめたのである。

「作戦指揮の評価もできた」

 軍人――ゲオルギー・ジューコフは派遣された目的の報告書を掲げた。
 彼は本来白ロシア軍管区副司令官だ。
 しかし、ノモンハン事件の勃発を受け、ヴォロシーロフ国防人民委員から、モンゴルに急行しソ連軍の問題点を洗い出すよう命令を受けていた。
 その中間報告は「5月28日、29日の極めて非組織的な攻撃の結果、わが軍は大きな損失を被った。戦術は稚拙で作戦指揮も構想力を欠いた」であり、辛辣な評価だ。
 最終評価もまた熾烈だった。

 1.『第57軍団とモンゴル軍の訓練は極めて劣悪で、準備態勢は犯罪的な怠慢ぶり』
 2.『日本の挑発行為を誘引したのは、誤った無責任な国境警備態勢』
 3.『5月の戦闘を通じ120kmも後方のタムスクから動かなかった軍司令部は国境の些事としか受け止めず、部隊指揮は稚拙で前線の状況を把握できず』
 4.『無能なフェクレンコ軍団長とイヴェンコフ作戦参謀は5月29日、日本軍の来援を恐れ、ハルハ川東岸の拠点を捨て、指揮者不在のまま無秩序な西岸への撤退を命令』

 この報告を受けたヴォロシーロフは指揮官だったフェクレンコらを更迭し、その代わりにジューコフを軍団長に据えた。
 日付は6月12日であり、第一次ノモンハン事件が終結したとされる6月5日から一週間後だ。
 ソ連は早い時期から第二次が起こると予想し、その準備をジューコフに命じたのである。
 ソ連軍は第57軍団の戦力増強を進め、特に航空隊の立て直しを始めた。
 数的優勢を得るために飛行6連隊を送る。
 さらに劣勢に陥った理由である練度不足を解消するため、熟練教官の派遣を交代した。
 教官たちのトップには、空軍副司令官であるスムシュケビッチ少将が務める。
 彼はスペイン内戦の折にソ連空軍を指揮した歴戦の猛者だった。

「まずは戦力を整え、敵を探るぞ」

 軍団長に就任したジューコフは居並ぶ幕僚にそう命じる。
 到着した航空部隊と教官たちに猛訓練。
 さらに日本軍の情勢を伺うために密偵を放つ。
 ソ連中央も諜報活動を活発化させ、日本軍の動向を探った。
 ソ連軍は、日本政府は不拡大を望んでおり、大規模な増援はないと踏んでいる。だが、大陸にいる日本軍は非常に好戦的であり、高い練度を持つ危険な組織だ、とも考えていた。
 いざとなれば満州事変のように中央の意向を無視し、攻撃に踏み切る可能性も考えている。



「―――日本軍に増援はない、だと?」

 6月16日、ソ連軍陣地にてジューコフは密偵の報告を受けていた。
 偵察を命じてから報告が早いのは、すでに諜報網が構築されているからである。
 日本本国は最近厳しくなってきたようだが、外地の、しかも最前線付近ではまだまだ日本軍は情報を軽視していた。
 一方、ソ連はそれが進んでいる。
 その目がしばしば内側に向き、大粛正が行われるのは皮肉の限りだが。
 それはともかく、密偵がもたらした調査内容は「日本陸軍第二三師団に対する増援なし、後方の関東軍も動かず」という信じられないものだった。

(満州事変の後処理が効いていると言うことか?)

 あの事件で処分されたものは多い。
 さらにクーデター未遂である二・二六事件でも多くが処分されていた。
 中央政府――特に帝――の意向を無視したという事実は、どんな戦果があっても許されるものではないらしい。
 西洋世界では当然の考えだが、これまで東洋ではそのようなことはなかった。
 かならず何らかの温情があったのだ。

「揺さぶってみるか・・・・」
「は?」

 ジューコフの呟きを聞き取れなかった参謀が怪訝な顔をする。
 それに手を振って何でもないと伝えたジューコフは、そのまま彼に下がるように命じた。

「ハッ! それでは同志・ジューコフ閣下、失礼いたします!」
「ああ、待て」

 敬礼して回れ右をした彼の背中に声をかける。

「何か?」
「同志・スムシュケビッチ少将を呼んできてくれ」
「了解いたしました」

 彼が部屋から出て行くと、ジューコフは部屋の大机に置かれた周辺地図に目を落とした。

「さて、どこがいいか・・・・」

 顎に手を当て、待ち人が来るまで思考に沈む。


 スムシュケビッチ少将がジューコフの執務室に現れたのは、言伝を頼んでから30分後だった。
 それまでに考えをまとめたジューコフは笑顔で彼を迎える。

「如何なされたか、同志・ジューコフ」
「いやなに、航空部隊の訓練状況を効きたいと思ってな、同志・スムシュケビッチ」

 ジューコフは大机の前に彼を呼び、両側に分かれる形で立った。

「訓練は順調だ。そもそも日本軍を侮っていたようで、ただの日常訓練不足だった」

 スムシュケビッチは今も聞こえるプロペラ音に目を細めながら言う。

「ここ数日の訓練でだいぶ勘を取り戻したようだ。また、中央から派遣されてきた部隊もなかなか良い状態だぞ」
「日本軍のパイロットは強者揃いかつ機体性能もいいらしいが、大丈夫か?」
「機数は少ないのだろう?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 スムシュケビッチの言葉にジューコフは黙って頷いた。

「ならいくら撃墜されても最後はこちらが勝つ」

 スムシュケビッチがニヤリと笑い、言葉を続ける。

「だから、いつでもやれるぞ。どこにする?」

 ジューコフが地図の前に誘った時点で話の内容を理解していた彼が地図に視線を落とした。

「・・・・ここだ」

 カンジュル廟。

「・・・・いいのか?」

 スムシュケビッチが眉をひそめながらジューコフの顔を見遣る。
 ジューコフが指し示した地点は、ソ蒙両国が主張する国境を越えていた。
 自他共に認める越境攻撃である。

「構わん。このままいたちごっこで戦力の逐次投入をしていられない」
「越境攻撃で挑発し、やってきた日本軍を今度こそ撃破するのか?」

 この言葉に、ジューコフはニヤリと笑った。

「その通り。まさに押っ取り刀でやってきた用心棒に、鋼鉄の弾を見舞おうではないか」
「なら、我らは爆発する矢文を運ぶわけだ」

 スムシュケビッチも同種の笑みを浮かべた後、表情をまじめに戻して訊く。

「出撃は?」
「明日。作戦の次第は任す」
「了解。火を点けてくるさ」

 こうして、1939年6月18日のソ連軍による満州国内越境航空攻撃が決定した。
 それは文字通りの火種である。
 日ソ両軍が再びハルハ川を戦場にして戦う、第二次ノモンハン事件の幕開けだった。









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