二・二六事件 -2
「―――ええい、どうなっているのだ!」 2月27日午後0時30分、討伐の奉勅命令を出したというのに一向に事態が動かないことに今上天皇・迪斗は苛立っていた。 (何より、嘉斗と連絡が取れん!) 宮内省から派遣した侍従武官が確認したところ、玄関に若い警察官の遺体があり、屋敷内では戦闘跡があったという。 しかし、生存者どころか先の警察官以外の遺体も発見できなかった。 (嘉斗の嫁につけた侍従武官は優れているが・・・・) 数十人程度の兵ならば蹴散らせるだろうが、相手は軍だ。 すぐに陸軍に押さえつけさせてはいるが、軍隊で完全に包囲しているわけではない。 (今のところ、反乱軍は落ち着いている・・・・) 閣議を抜け出し、無理を通して半蔵門に近い警察署に電話をかけてみた。 すると、警察には鈴木侍従長の無事と首相官邸が包囲されている事実が入っていたようだ。 軍よりも警察や憲兵隊の方が情報が早いというのはどうかと思うが、民間の治安組織が生きていることに安堵した。 「伏見宮も伏見宮だ」 (軍令部総長という立場にありながら、よりによって皇道派の首魁・真崎甚三郎大将と協議してから参内するなど・・・・) そして、言ったのは、速やかに要求通りの内閣を作れ、だった。 「反乱軍の言葉を実行に起こせば、それはもはや法治国家ではない」 軍部の恫喝に首相や大臣が意見を変えるのはまだいい。 よくはないが、いい。 だが、軍隊の物言いに国家が曲がるのは、もはやそれは国際的に見て、国家崩壊と同じだ。 国際社会での信頼性を失うどころか、これまで築き上げてきた全てを失いかねない。 (所詮、伏見宮は現場の人間か・・・・) 伏見宮が軍令部総長でいられるのも、側近が優秀だからに他ならない。 嘉斗の勢力を影ながら支持しているのは、側近も使い物にならなくなったか、艦隊派という組織が大きくなりすぎたのか。 「いや、今はそんなことはどうでもいい・・・・」 迪斗の耳には陸軍高官や佐官がしきりに反乱軍将校と連絡を取り、善後策を協議しているようだ。 皇軍が東京で激突するような激しい対立にはならず、話し合いの場が設けられていることには評価する。しかし、どうして民衆を避難させた後、包囲してから行わないのか。 (これではまるで反乱軍を必死に守っているようだ・・・・) 参謀総長もおろおろするばかりで頼りない。 (やはり、皇族が実働部隊の長ではダメか・・・・) 忠実では本庄繁侍従武官長が陸軍として動いていたが、この物語では満州事変で彼は予備役に編入されており、侍従武官制度も大きく様変わりしていた。 陸軍との窓口を失っていた迪斗はこの時、断片的な情報しか入手できない。 そんなもどかしさがあった。 「―――失礼致します」 物思いに耽っていた時、聞き慣れた陸相の声がした。 「陸相、鎮圧軍は出したか?」 入ってきたのは、川島義之陸軍大将だ。 近衛歩兵旅団長を務めたこともある人物なので、若い頃から知っている。 「現在準備中です」 「杉山参謀次長が引き寄せた部隊では足りぬか?」 引き寄せた兵力は歩兵第四九連隊(甲府)と歩兵第五七連隊(佐倉)だ。 合わせて4,000。 東京市に展開する第一師団と近衛師団を併せれば十分に反乱軍に対応できるはずだ。 「兵力的に圧倒できましても、彼らが陣取っているのは霞ヶ関、三宅坂一帯です。住民の避難、陸軍省及び参謀本部の防備も固めなければなりません」 そう、今は占拠されている地域の行き来が可能だが、いよいよ討伐となれば不可能になる。 今のうちに重要な場所で防衛戦闘ができるように準備し、外から攻撃する部隊の援軍まで持ちこたえられるようにしなければならない。 「海軍省は横須賀鎮守府の海軍特別陸戦隊約2,000が守備しており、こちらは大丈夫でしょう」 「うむ」 即応した横須賀鎮守府はさすがと言えよう。 「それで・・・・陛下」 川島は言いにくそうに迪斗を見上げた。 「昭和維新、断行致しませぬか?」 何度も聞いた言葉だ。 「くどいっ!」 カッと頭に血が上ったのが分かった。 迪斗は脇に置いていた剣を手に取る。 「朕が最も頼みとする大臣達を悉く倒すとは、真綿で我が首を締めるに等しい行為だ!」 鞘から抜き放ち、その鞘を放り投げた。 「貴様も大臣の末席を汚す身ならば分かるだろう!?」 「・・・・ッ」 迪斗が抜き放ったのは、彼が天皇である証拠の剣。 天叢雲剣の形代だ。 本物は熱田神宮に安置されているが、この剣も十分な【力】を持っている。 「貴様らがぐずぐずしているのならば・・・・」 川島に突きつけた切っ先を翻し、軍隊仕込みの剣裁きを見せ――― 「朕が直接近衛師団を率いて鎮圧に当たる!」 ドンッと切っ先を床に叩きつけた。 目に見えない衝撃が川島を床に転がす。 「そ、それだけはご容赦を!」 川島は床に平伏し天皇出陣だけは止めてくれと懇願した。 「ならば、即刻の事態を鎮めよ!」 「ははっ」 しかし、事態はなかなか動かない。 同日午後、海軍の第一艦隊が東京湾突入し、旗艦「長門」以下主砲を反乱軍に向ける。そして、それに同調し、海軍省に展開していた横須賀鎮守府海軍特別陸戦隊約二〇〇〇も動きを活発化させた。 それでも皇軍同士の戦いを阻止したい陸軍首脳は、反乱軍首脳と交渉を続ける。 主にその内容は、どうやって昭和維新を成し遂げるかであり、迪斗からすれば陸軍首脳も反乱軍と同じだった。 それを脇で見ていた杉山元参謀次長は一本の電話をとある人物にかける。 「陸軍首脳部、討伐に動かん」 『・・・・仕方がありません。こちらも動きます』 電話先の若い将校は、覚悟を決めたようだ。 (将来の陸軍は、今の若者が正しい道に進めば安泰かもしれん) と考え、杉山は出口の見えない論争を続ける首脳部を見てため息をついた。 「―――陛下、島津公爵閣下が謁見を求められております」 27日午後6時、島津公爵家当主・忠重。 現役の海軍大佐であり、海軍薩摩閥を代表する人物でもある。 尤も海軍において、薩摩閥は過去のものであり、彼自身も望んでいない。 「よい、通せ」 陸軍が動かない理由を聞いてみたいと考え、迪斗は彼を通した。 「陛下、ご機嫌は・・・・麗しくないようですね」 「当然だ。海軍は使えるが、陸軍はダメだ」 「いえいえ、捨てたものではありませんよ、陸軍も」 忠重はニコリと笑い、付き人としてやってきた者に顔を上げさせた。 「彼も陸軍軍人ですから」 幼少で公爵家を継いだ彼は、多くの薩摩藩出身の者に助けられている。 彼の付き人もその家のひとりだ。 「ふ、ふははは! なるほどの!」 チラリと付き人を見た時、忠重の言わんとするところが全て分かった。 「よい。すでに奉勅命令は出しておる」 迪斗は事態が好転することを確信し、ニヤリと笑う。 「ですが、陛下。もっと効果的なことをしてみませんか?」 「ほう?」 名門中の名門が浮かべる悪戯っぽい笑みに、迪斗は引き込まれた。 「天皇陛下も言質通り、近衛を連れて出陣致しませんか?」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 如何に家柄と名前が売れていても、島津が言外に進言したことは軍紀違反だ。 協力する陸軍将校は元より、島津自身も将来を失うだろう。 それを回避する伝家の宝刀は、ただひとつ。 (朕の身体、か) 「おもしろい。陸軍首脳の皇道派? とやらの驚く顔が見られそうだ」 迪斗は立ち上がり、剣を握る。 「あ、陛下」 そのまま歩いて行きそうな迪斗に、付き人が声をかけた。 かけてしまった。 ちゃんとした地位や爵位がなければ直答が許されないのだ。 「申し訳ありません」 忠重が付き人の頭を掴んで頭を下げさせる。 「よい。何が言いたい?」 打開策を持ってきたちょっと年上の付き人に質問した。 「・・・・はは」 付き人は顔を上げると、人を安心させる笑みを浮かべる。 「高松宮殿下は我が妻が保護したとのことです。どうぞご安心ください」 「・・・・・・・・・・・・・・・・そうか」 ほっと息をついた。そして、彼の妻を思い浮かべ、小さく吹き出す。 「そなたの妻はまこと男勝りだな」 侍従武官に誘い、二つ返事で断られたことを思い出したのだ。 「・・・・重ね重ね申し訳ありません。我が一族の末席が・・・・」 縮こまる忠重に迪斗は手を振り、快活に笑った。 「なあに、あの時断られたが、欲しい時に欲しい働きをした。十分じゃ」 答えた迪斗は剣を佩き、大声を上げる。 「誰か! 近衛師団長を呼べ!」 近衛師団長・橋本虎之助は万が一、反乱軍が宮城に入ってこないよう残った近衛連隊を指揮していた。 宮城には第一近衛歩兵旅団が展開している。 「近衛第一旅団を借りるぞ」 参内した橋本に対し、迪斗は開口一番にそう言った。 たまげる橋本を置き捨て、部屋の外に出た迪斗は侍従武官に告げ、近衛歩兵第一連隊長・小泉恭次大佐に出撃準備を調えるように命じる。 結果的に、これが事態を大きく動かした。 28日未明に反乱軍に奉勅命令と天皇出陣が伝わった。 攻撃開始は夜明けと同時。 戦力は宮城から出陣する。 迪斗直卒の近衛歩兵第一旅団、武隼時賢中佐率いる実験戦車中隊だ。 迪斗の補佐に当たるのは菱刈隆陸軍大将である。 実験戦車中隊では新型戦車試作車(後の九七式中戦車)も投入される。 攻撃には畑俊六陸軍中将が航空本部長として戦闘機の出撃を許可。 これを受け、杉山元が包囲していた全軍に呼応するように命じる。 慌てた皇道派は急ぎ降伏するように反乱軍将校に言うしかなかった。 反乱軍将校は天皇自ら出陣すると聞き、茫然自失となって降伏する。 結局、皇軍同士の戦闘は起こらず、討伐軍は一発の銃弾も放つことはなかった。 「―――嘉斗!」 事件収束後、嘉斗は亀と穂衣を伴って宮城に入った。 宮城は近衛師団が警戒を続けており、侍従武官も闊歩している。 そんな中、近衛歩兵連隊長に指示を出していた迪斗が嘉斗の顔を見て顔を輝かせた。 「無事と聞いていたが・・・・何より」 迪斗の傍には彼の弟であり、嘉斗の兄である淳斗(アツト)もいる。 東北の任務地から帰還していたようだ。 実際に連隊長に細かい指示をしていたのは淳斗かもしれない。 彼もまた、現役陸軍軍人なのだ。 「まさか兄上が出陣されるとは思いませんでした」 「何、一番解決が早いと思ってな。・・・・尤も戦力を提供したのは、武隼だが」 「我が夫は何処に?」 「こら!」 傍にいた島津公爵は天皇に質問した同族を叱る。 「はは、よいよい。嘉斗の恩人だ」 離れさせようと動いた忠重を手で制し、迪斗は穂衣に向き直る。 「武隼"大佐"ならば、新型戦車の確認を行っているだろう」 「・・・・大佐?」 中佐だったはずだ。 「ああ、全くおもしろい男だ。思わず、特進させてしまったわ」 「・・・・兄上・・・・兵権を乱しすぎです」 初耳だったのか、淳斗が頭を抱えた。 「はっはっは!」 困った顔をする弟を見て、迪斗は腰に手を当てて呵々大笑する。 「「笑い事ではないでしょう・・・・」」 脳天気な兄に、弟ふたりは項垂れた。 二・二六事件の結果、皇道派は壊滅した。 荒木貞夫陸軍大将、真崎甚三郎大将は軍事参議官を罷免、退役へ。 香椎浩平陸軍中将(東京警備司令官兼東部防衛司令官)も予備役へ。 他にも事件の責任を取って左遷、予備役に送られたものは多い。しかし、忠実における東条英機率いる統制派の拡大とは至らなかった。 事件を解決したのは武隼時賢率いる皇道派に走らなかった薩摩閥(九州閥)を中心に、衰退した長州系と旧徳川系の軍人たちが結成した反二大派閥だったのだ。 皇道派の壊滅は避けようがなかったが、統制派一辺倒にもならなかった。 反二大派閥は「無名閥」とも呼ばれ、統制派の首魁・東条が満州にいる間に横やりを入れる。 新陸軍大臣には田中国重予備役大将が就任した。 これは、引退した皇道派の将校でも陸軍大臣になる可能性を残さないために軍部大臣現役制を復活させようとしていた統制派の目論見を抑止する。 寺内寿一大将(山口県出身)を据えようという声もあったが、軍部大臣現役制の復活の阻止を印象づけるために予備役軍人を起用したのだ。 田中は鹿児島県出身であり、武隼久賢、尚賢父子と仲がよく、薩摩閥――無名閥と言っていい人物だ。 新参謀総長には岸本綾夫中将が大将に昇進することで就任した。 今回の事態で皇族がトップであることに疑問を抱いた迪斗の命で、閑院宮載仁親王の代わりである。 岸本は戦車開発の責任者であり、陸軍の戦車開発を推進するための就任である。 新近衛師団長には鷹司昌澄中将が就任した。 松平吉井家とは別の家系だが、摂家に連なる家柄だ。 摂家は代々左近衛大将に任じられてきた歴史を持つ。 海軍も事件の影響を受けた。 青年将校から次期首相に推された山本英輔大将が予備役に回される。 対応の下手さが露呈した大角海軍大臣の後任には、永野修身大将が就任した。 軍令部総長であった伏見宮博恭王元帥も交代し、藤田尚徳中将が大将に昇進することで就任した。 海軍次官には山本五十六が航空本部長から呼び戻され、連合艦隊司令長官には米内光政が橫須賀鎮守府司令長官から任命される。 海軍は一気に航空戦力増強に傾いたのだった。 岡田内閣は総辞職し、廣田内閣が誕生した。 軍人でも名門の出身でもない廣田は、軍の特権を徹底的に潰す。 組閣に際して陸軍が文句を言ったが、急ぎ組閣するようにと天皇からの命令で黙らせた。 そして、陸海軍に対し、陸海大臣を出す義務を付与。 陸海が期限内に大臣を推薦しなかった場合、内閣総理大臣が天皇の承認の下に指名できる法案を通したのだ(その結果が田中陸軍大臣)。 議会は軍人首相に終わりが見え、憲政の常道に戻る期待から提案から3日で成立させた。 二・二六事件は満州事変から始まったひとつの時代を終わらせた。 次に始まる時代は、軍備改革である。 |