満州事変 -1
武隼時賢。 1896年(明治29年)生まれ。 第一次世界大戦では一兵卒として欧州戦線に参戦する。 その後、騎兵科に進むが、戦車の登場で紆余曲折を経て誕生した機甲科に所属する。 この改変には、工兵科の上原勇作大将、騎兵科の秋山好古大将、武隼尚賢大将、歩兵科の本郷房太郎大将、砲兵科の内山次郎大将、柴五郎大将といった旧3期に属する名大将が決議して行った改革であった。 以後、日本は自走能力を重視した車両を開発する。 詳しく言えば、対トーチカ用の大砲を装備した歩兵戦車、機動力を重視した巡航戦車、工作重機、自走砲である。 これらをひとまとめにしたのが、機甲科である。 時賢は欧米を見学し、この戦車開発の第一人者となると共に、機甲師団創設に大きく関わることになる人物である。 しかし、軍縮会議締結で平和を迎えた海軍と違い、揺れる中国大陸事情で迷走する1931年において、彼はまだ35歳。 陸軍大尉として、参謀本部付を命じられる、青年将校でしかなかった。 武隼時賢side 「―――ここが・・・・関東軍司令部か・・・・」 1931年9月15日、中国大陸遼東半島旅順に、武隼時賢陸軍大尉は到着した。 目的は7月に発生した中村大尉事件の調査を理由にした、関東軍の監視である。 中村大尉事件は極秘調査中の中村大尉が中国兵に殺害された事件であり、日中の外交問題に発展していた。 これは外務大臣・幣原喜重郎の国際協調を重視する方針に、大打撃を与えている。 また、蒋介石率いる国民党政府が北伐を完了させてから、満州における朝鮮系移民が迫害されていた。 これに対する軍事行動を起こしたい関東軍の思惑を調査することも上げられている。 (嘉斗殿下ではないのに・・・・荷が重いことだ) 盟友であり、海軍軍令部第三部(情報)に所属する高松嘉斗のことを思い浮かべ、ため息をついた。 「―――失礼します!」 複数の調査員を連れ、時賢は司令部へと踏み込む。 「参謀本部付、武隼時賢大尉以下5名、中村大尉事件調査のため、到着致しました!」 一兵卒上がりの大声が、エリート参謀たちが居並ぶ司令部に響き渡った。しかし、彼の名前はそのエリートたちを戦慄させる意味がある。 「武隼・・・・あの武隼か?」 「あの山県卿と張り合った武隼久賢公の孫・・・・」 「宇垣一成大将の軍縮を修正させた武隼尚賢大将の嫡男・・・・」 (三代目、か・・・・) 時賢の祖父、父は偉大な人物だ。 祖父は明治陸軍を作り、その近代化を支え続けた大戦略家。 父も陸軍の長老として引退後も影響力を残し、通称、宇垣軍縮を修正させた。 宇垣軍縮は当初、四個師団の削減による将校の削減を成そうとした。しかし、せっかく育てた将校が一気にいなくなるのは問題だと反対。 結局、各部隊の定数を削減することにしたのだ。 1個師団を約1万2,000人から約一万人に削減し、それ以下の部隊編成単位も以下の数値を基本とした。 1個歩兵旅団(2個連隊)4,000。 1個歩兵連隊(3個大隊+α)2,000。 1個歩兵大隊(4個中隊)600。 1個歩兵中隊(5個小隊)150。 1個歩兵小隊(6個班)30。 1個師団には2個歩兵旅団を歩兵として加えるため、残りの2,000は騎兵、砲兵、工兵などで構成された。 当時、師団数は21師団あり、各師団から2,000名削減したため、削減人員は4万2,000人。 宇垣が計画した数よりはやや少ないが、部隊数は変わらず。 さらに教育機関の削減もなかったため、軍縮効果はほとんどなかった。 それでも歩兵が減った分、人件費が下がる。その結果、戦車や航空機に比重を置いた研究が行えるようになり、日本陸軍の近代化を成し遂げたのだ。 何より、忠実の歴史で問題化した軍人軽視やそれに伴う軍人の不満がある程度抑えられた点で、武隼尚賢の大戦略家としての才覚が窺える。 「―――ええい、静まれ!」 関東軍司令官・本庄繁陸軍大将の一喝で、参謀たちは口を閉じた。 「武隼大尉、調査ご苦労である」 歩兵科出身であり、現場より後方で勤務した経験が多い本庄だが、日露戦争では軍を率いてロシア軍と戦っている。 この場にいる参謀たちより、文字通り、格が違った。 「中村大尉については、このふたりに訊くがよい」 本庄の視線を受け、ふたりの将校が歩み出る。 「高級参謀・板垣征四郎大佐だ」 「作戦主任参謀・石原完爾中佐」 (板垣征四郎、石原完爾・・・・) ふたりとも歩兵科出身の参謀であり、切れ者と有名だった。 「騎兵科としての意見も重視したいですな」 「満州は広いですから」 ふたりの視線は、完全に時賢を値踏みしている。 というか、上原勇作元帥が受け継いだ陸軍薩摩閥が空中分解しつつある今、その秘蔵っ子である時賢を、落日の王子として見ているのだ。 「おいも是非教えを請いたかものでごわすな」 参謀畑の彼らと違い、時賢は欧州大戦の地獄を知っている。 「参謀としての、きれいか作戦立案方法を」 『『『『『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・』』』』』 わざと薩摩弁で言ったことに、他の参謀を含めて絶句した。 薩摩をバカにされたというのに、わざとその薩摩で返す。 その胆力に驚いたのだ。 「ふ、さあ、武隼大尉、こちらへ」 堂々とした態度に、石原は笑いを漏らし、部屋の外へと促す。 「これまでの情報を提示しよう」 中村震太郎大尉は、軍用地誌調査のために満州入りした。 このとき、身分を偽っていたためにスパイとして殺害された可能性が高い。 スパイは捕虜にはできないため、中国政府としての対応は正しかった。しかし、日本での報道は、スパイ云々を避けていたため、世論が沸騰していた。 軍同士の問題ではなく、外交問題に発展したことで、満州軍は手をこまねいて見ているしかない。 その状況をどうにか打破したく、参謀本部から時賢たちを招いたという。 「島津忠重海軍大佐とは今も交流が?」 事情説明が終わった瞬間、石原は別の話題を振ってきた。 「はい、島津公爵家とは今も懇意にしています」 島津公爵家。 つまりは薩摩藩藩主の家系であり、島津忠重とは現当主である。 幼少に父・忠義を亡くし、日清・日露では埋没したが、文化的な行動を通して世に貢献していた。 しかし、武家らしく、軍人でもある。 それも海軍だ。 これは長州の陸軍、薩摩の海軍を象徴するかのように思える。 「それはいい。海軍との繋がりは重要だ」 石原は机に置かれた地図を撫でた。 「如何に我々陸軍の仮想敵がソ連であろうとも、東シナ海、日本海を渡らなければ軍を維持できない」 所詮、日本は島国である。 「大した艦隊を持たずとも潜水艦は脅威になる」 「ええ、欧州に行くまでに見ました。戦友が戦地にたどり着く前に海の藻屑に消えた・・・・」 欧州大戦に派遣された兵力の5 %ほどが潜水艦によって失われている。 海軍に至っては、軍艦も撃沈されていた。 「で? 私に何を?」 「聡いキミは好感が持てるよ」 石原は如何に大陸の民が困っているのかを主張する。 また、最近の中国国民党のやり方を許せないとなじった。 軍事行動は無理でも、何とかしなければ、帝国の大陸運営は崩壊すると語る。 「我々は陸軍の出先機関だ。本国参謀本部のキミならば、参謀総長・金谷大将に伝えてくれないか?」 「・・・・正式な嘆願書で出すべきです」 時賢は石原の眼光に身を退きながらも、そう返した。 「確かに関東軍は約1万です。それに対して、張学良は四一万を持っています」 「そう、それだ。『所詮、日本軍は何もできない』。張学良はそう思っているに違いない」 この時、張学良の父・張作霖は関東軍の暴走で殺害されている。 このため、張学良の圧政はそれに対する報復とも言える。 (悪循環に陥っている・・・・) そう時賢が思うほど、関東軍を取り巻く情勢は悪い。だが、世は軍縮の流れであるし、今更増派しても、戦力差は埋まらないだろう。 「ふ、目の色が変わったな」 再び立ち上がった石原は、部屋を出て司令部の外へと歩き出した。 その目的地には倉庫がある。 「兵器、ですか?」 「ああ」 石原は警備していた兵にシャッターを開けさせた。 「八九式軽戦車。・・・・貴様なら、どう使う? 生憎、高官はほとんど歩兵科なので分からん」 「イ号が・・・・10輌も・・・・」 国内でも最新鋭である戦車がズラリと並ぶ。 「貴様、これを指揮してみないか?」 これが"帝国陸軍の異端児"と"薩摩の御曹司"との出会いだった。 勃発scene 1931年9月18日。 ―――ドォッ!!! 満州鉄道の奉天付近で爆発事件が生じた。 関東軍は簡単な現場検証の結果、犯人は中国軍と断じた。 これが柳条湖事件であり、満州事変の始まりである。 関東軍はすぐさま行動を開始。 無抵抗の中国軍を制圧していく。 朝鮮軍の越境と併せて、政府と陸軍中央は関東軍を制御できなかった。 中国共産党との戦争を重視した蒋介石、無抵抗を命じた張学良の思惑は分からないが、満州をほぼ制圧することに成功する。 当事国以外からの影響は、アメリカからだった。 スティムソン国務長官は幣原外務大臣に対し、戦線不拡大を要求する。 幣原は金谷参謀総長に万里の長城や北京への侵攻を絶対に阻止することを電話で要請した。 金谷はすぐにその旨を関東軍に伝達すると、同時に密命も下す。 ちょうどその頃、張学良がいる錦州を爆撃するため、関東軍の爆撃機が出撃準備をしていた。 しかし、それを阻止しようとする者がいたのだ。 「―――急げ!」 10月8日、時賢は戦闘指揮車で大声を上げた。 後ろには八九式軽戦車にて構成された1個戦車中隊、参謀本部が派遣した一個歩兵中隊を乗せた自動車列が続いている。 大尉である時賢が率いるには分相応な戦力だが、参謀本部長からの厳命なのだから仕方がない。 時賢が集中運用する一方、久留米の第一戦車隊を母体とする臨時派遣第一戦車隊の百武中尉は関東軍によって部隊の分散投入などを命じられていた。 「大尉殿! 周辺の部隊が進撃理由を問うてきています」 「捨て置け!」 柳条湖事件が勃発して20日。 時賢は調査を中止し、実験的部隊を実戦部隊にするために訓練していた。 途中、金谷参謀長が派遣した歩兵中隊を加え、旅順に駐屯し続ける。 本庄関東軍司令官の進撃命令も無視して居座る不気味な部隊が動いたのだ。 当然、他の部隊は驚いた。 「大尉殿、自動車は保ちますが・・・・戦車は大丈夫ですか?」 「問題ない。あの戦車は八九式だ」 八九式軽戦車。 日本初の国産戦車であり、最新鋭だ。 約660 kmの長距離運用試験をパスした走行性能だ。 駐屯地から目的地までは簡単だろう。 というか、給油なしでも行ける距離である。 (戦車の知識が薄いな・・・・) 質問したのは歩兵中隊長の中尉だ。 下士官ならば分かるが、防衛大学を出た彼でもこの程度なのだから、大半の将校が知らないことになる。 「見えました! 飛行場です!」 「飛行場内に侵入と同時に横列へ!」 時賢の声を旗で信号員が後方に伝えた。 「砲撃用意!」 飛行場と道を区切る柵を指揮車で無理矢理ぶち抜く衝撃に身を揺さぶられながら、時賢は声を上げる。 飛行場内は12機の爆撃機がプロペラを回しており、戦車進撃以上の爆音が響いていた。 「目標、滑走路ぉー」 指示が聞こえないであろうから、信号員から旗を奪い取る。そして、魔力を上乗せした大声と共に自分でそれを振った。 「てぇー」 赤旗を前方に振り抜くと同時に、横列に移行していた八九式軽戦車の主砲――五七ミリ砲が一斉に咆哮する。 10個の砲弾は滑走路上にばらまかれ、穴を穿った。 これでは爆撃機の発進は不可能だ。 「な、何をする!?」 ようやく、戦車隊の衝撃から立ち直った飛行場守備隊が小銃片手に寄ってくる。 「歩兵散開! 戦車隊は歩兵支援!」 「歩兵散開!」 中隊長の命令で、戦車砲撃のために飛び降りていた戦車歩兵と後方から自動車で輸送された歩兵がバラバラと散らばって戦闘配置についた。 その数は守備隊以上であり、守備隊長は軍刀を振り上げたまま凍りつく。 表情から「これだけの兵力をどうやって移動させたのか・・・・」と思っているのが分かった。 それに満足した時賢は、持ち前の声量で大きく名乗る。 「こちら、大日本帝国陸軍参謀本部付、武隼支隊! 参謀総長から直命にて、この発進を阻止しにきた!」 「な、何!?」 現場指揮官は中央の不拡大方針を知らない。 錦州の張学良を殺し、満州の平穏を取り戻すまで戦争が続くと思っていた。 「繰り返す! 爆撃中止! 戦闘中止!」 いきなり言われても戸惑うだけである。 だが、相手は戦車戦力を持ち、「武隼」と名乗っている。 故に現場指揮官は上級指揮官の方を見た。 「・・・・こう使うか・・・・」 ため息と共に呟かれた言葉は、聞こえなかったが、苦笑から諦めたと判断する。 視線を受けたのは、司令部から出てきた関東軍作戦参謀・石原完爾中佐だった。 「武隼大尉、見事だよ」 石原は手を振って爆撃機のエンジン停止を命じる。 「ところで作戦の情報漏洩について、どう思う?」 「・・・・中佐殿、あなた・・・・」 今回の中止命令とほぼ同時に、アメリカ合衆国は日本の侵略は止まる、と宣言していた。 これは幣原外相がアメリカに伝えた内容であり、確かに軍事作戦内容の国外漏洩だ。 「いえ、中佐殿」 重大なことだが、それ以上に重大なことがある。 そう思い直した時賢は首を振って、石原の思惑を蹴散らした。 「関東軍及び朝鮮軍の軍紀違反の方が重大です」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 「若槻首相、南次郎陸相、金谷参謀総長が不拡大方針を打ち出したのに、関東軍はそれを無視した」 時賢は参謀職にある石原に、ひとつひとつ説明する。 「おまけに朝鮮軍司令官である林銑十郎中将は独断で軍を派遣した」 石原の笑みは変わらない。 自分は正しいことをした。 中央が現場の状況を分かっていないだけ。 「石原中佐。現場の判断が優先されるのは、戦術段階だけですよ。戦略、いえ、外交段階において、優先されるのは、国家方針決定機関です」 「だから? 『覆水盆に返らず』というが?」 「ええ、そうでしょう。返ることはありません」 満州事変が一応の終結を見せるまで、この軍事行動は続くだろう。 「ですが、責任者が無罪放免とも限りません」 「だろうな。だが、戦果を立てた者は―――」 「事変終了後、関東軍及び朝鮮軍の主立った指揮官は、厳密な調査の下に統帥権違反において処罰します」 この言葉に、石原の笑みが凍りついた。 「これは陛下の厳命です」 「・・・・ッ」 関東軍と朝鮮軍は1932年にハルピンを占領し、満州全土の占領を成し遂げる。そして、3月1日に清王朝最後の皇帝・溥儀を執政に据えた「満州国」の樹立を宣言した。 一方、10月8日に武隼時賢が錦州爆撃を阻止する。 これは政府が憂慮していた万里の長城超えはなかったが、政府は安達内相の離反で若槻内閣の崩壊し、事態収拾が遅れていた。 このため、今上天皇が動いた。 天皇の意を受けた近衛師団が満州に派遣され、関東軍の行動を強く監視することで、満州以外の地域への戦線拡大を防止する。 近衛師団の不在、憲兵隊の検挙によって本土で十月事件が起こる。 十月事件はクーデター未遂事件であり、この首謀者と満州事変の首謀者は今上天皇の厳命によって厳しく処罰されることとなった。 この今上天皇の動きは、最近の陸軍の暴挙に腹を立てていた証拠である。 何はともあれ、動き出した事態は変わらないが、動かした人物たちの運命は大きく変わることとなった。 |