ワシントン会議


 

 ワシントン会議。
 1921年、アメリカ合衆国大統領ウォレン・ハーディングの提唱でワシントンD.C.で開かれた国際軍縮会議だ。
 一般にはワシントン海軍軍縮会議とも呼ばれるが、その目的は軍縮だけではなかった。
 特にアメリカは、欧州大戦に兵力を派遣しつつも主力を温存して中国大陸への権益を拡大させた日本を押さえ込むことを目的としていた。
 忠実では日本の外交暗号が解読され、日本の譲歩を最大限まで引き出したアメリカの勝利となる会議である。
 だが、日本にとっても、少なくとも戦間期に国家破産しなかったというメリットがあった。



「―――すみませんね、ご足労頂いて」
「いえいえ、殿下のために参上するのは軍人として当たり前です」

 1921年、ワシントン会議のために大使たちが出発する3日前、嘉斗はひとりの海軍軍人を皇居に呼び出していた。
 ただ海軍軍人にしては年を取り過ぎている。

「世界的英雄であるあなたとただの皇族とでは立場が違います、東郷元帥」
「今はただの老人ですがね」

 東郷平八郎。
 日本では知らぬ者はなく、世界的に有名な海軍軍人だ。
 日露戦争の日本海海戦でロシア第二太平洋艦隊――通称、バルチック艦隊――を打ち破った艦隊司令官である。

「して、何用かな?」

 笑みの中でも笑わない視線が嘉斗を貫いた。

(うっ・・・・)

 その眼光に考えが吹っ飛びかけた嘉斗だが、きゅっと服の裾を掴まれ、我に返る。

「・・・・ふぅ」

(ありがとう)

 何故か付いてきた幼なじみの少女に心の中で礼を言い、東郷に向き直った。

「元帥は、今回の軍縮会議、どうお考えですか?」

 海軍条約を英米と締結する。
 満州とモンゴルにおける日本の権益について正式な承認を得る。
 これが日本側の条件だ。
 そして、保有艦比率は今でも海軍省で激論が交わされていることでしょう。

「政治のことは分かりませんが、保有艦比率には興味があります」
「では、ちょっと僕とお話ししませんか?」

 そう言って、にこっと笑った嘉斗に、東郷は同郷の親友――武隼久賢を幻視した。






ワシントン会議

(―――最悪だ・・・・)

 ワシントン会議の全権大使を務める徳川家達は、顔を強張らせている加藤友三郎と幣原喜重郎を見遣った。
 会議自体は順調だったが、肝心の海軍条約に入ると、日本はことごとくアメリカに主張を握り潰されている。
 保有艦比率は譲歩できるギリギリのところである対英米6割に押さえ込まれそうだった。
 さらに、海軍が完成したと主張する戦艦「陸奥」も未完成だと反論されている。
 日本側は対策を練るために、今は控え室に引き込んでいた。
 会議の再開は1時間後だ。

(これは・・・・マズい)

 主席全権大使だが、海軍の知識はほとんどない。
 だが、出発してから海軍の堀悌吉中佐より説明を受けていた。
 聞けば、軍艦というものは単艦では戦力を十分に発揮できず、発揮するためには同型艦が必要とのことだ。
 もし「陸奥」が認められなければ、戦艦「長門」は十分の戦力を発揮できない。
 そうなれば、戦艦の更新ができない向こう10年、日本海軍は主力を欠くと言うことになる。

「加藤海相、『陸奥』を諦めることは、無理ですよね?」

 幣原が問うた。

「当然だ。『陸奥』だけはなんとしてでも保有を認めさせなければならない」

 米英による「陸奥」への調査も、不首尾に終わったと報告を受けている。
 相手に決定的な証拠がない以上、「陸奥」を保有することは不可能ではないはずだった。

「ならば・・・・他に条件を出せばいいのか・・・・」

 幣原が考え込んだ。
 そう。
 「陸奥」の保有を認めてもらう代わりに、こちらが別の譲歩をする。

「米英が提示した、戦艦の追加建造の他に・・・・何かないか・・・・」

 加藤はコロラド級戦艦2隻、ネルソン級戦艦2隻の追加建造をものともしていなかった。
 開発計画段階だが、重巡洋艦は他国の巡洋艦を敵ともしない、準主力艦だ。
 多少、不利な状況でも、戦艦同士の殴り合いに水雷戦を仕掛けることは可能なはず。
 そうなれば多少敵の戦艦が多かろうと撃沈できる。

「早く決めなければ、他の参加国が会議に飽き、無理にでも議決に持ち込む可能性があります」

 幣原がハンカチで汗を拭く。

「徳川殿、何かありませんか?」

 家達の父は徳川慶喜だ。
 かつて、大政奉還という妙手を打ち出した戦略家である。

(だが、私は・・・・・・・・・・・・・・・・って、うん?)

 そういえば、出発前に同族の娘から手紙を受け取っていた。
 あまり交流がなかったが、皇族でもある者からの手紙だ。
 太平洋にてその手紙を読んでいたが、難しかったので今まで忘れていた。
 家達は内ポケットからその手紙を取り出し、目に付いた条文を読み上げる。

「・・・・『太平洋における各国の本土並びに本土にごく近接した島嶼以外の領土について、現在ある以上の軍事施設の要塞化を禁止。イギリスに考慮し、東経110度以東』」
「・・・・なんですって?」

 幣原が質問するが、とりあえず、読む。

「『なお、日本は千島諸島・小笠原諸島・奄美大島・琉球諸島・台湾・澎湖諸島、そして将来取得する新たな領土(内南洋のこと)の要塞化禁止』」
「うむ、別に必要はないな」

 加藤が頷く。
 これらの当初における軍事施設建造は、現状、計画されていない。

「『よって、"本土より300kmと規定する"』」
「・・・・なるほど」

 幣原は我が意を得たり、と膝を打った。
 奄美大島は本土――鹿児島より約300km。
 つまり、アメリカは"ハワイ"を含めない。
 アメリカ合衆国本土とハワイ準州は約3,200km離れている。
 アメリカがハワイに要塞を築きたいとするならば、日本も同じだけ認められなければおかしい。
 約3,200kmが認められれば、マーシャル諸島は無理でも、北マリアナ諸島、パラオは範囲に入る。
 結果、アメリカの植民地であるフィリピンやグアムが囲い込まれることになる。
 これはアメリカを困らせるに違いない。

「範囲地域名を明確にするのではなく、他の参加国にもわかりやすい。そして、絶対に変えられない距離を示せば納得しやすいですね」

 幣原はどちらに転んでもおいしい条件に、顔をほころばせた。

「・・・・しかし、そんな大事、海軍省に内緒で決めていいものか・・・・」

 首相である原敬からは「国内のことは自分がまとめるから、あなたはワシントンで思う存分やってください」と言われているので問題はない。
 その原は出発後に暗殺されてしまったのだが、首相の遺志ということで尊重されるだろう。
 問題は海軍内部だった。

「大丈夫でしょう」

 家達は最後まで読むと、加藤に手紙を差し出す。

「こ、これは・・・・」

 文末にあったのは、東郷平八郎元帥のサインだった。






(―――馬鹿な・・・・)

 1時間の休憩後、会議室に来た日本の大使たちの顔は明るかった。
 日本からの暗号はなかったのだから、状況を打開できたのではない。
 だが、アメリカ代表――ヒューズ国務長官は日本から予想通りの譲歩を引き出した。
 すなわち、戦艦「陸奥」保有を認めてもらう代わりに、コロラド級戦艦2隻の建造を認めさせたのだ。
 政治家、法律家である彼はほくそ笑んだ。しかし、その笑みも、幣原が浮かべた笑みの下に懐疑に歪むこととなる。

「たとえばだ。日本とアメリカが戦争状態に入ったとしよう。そうなれば、太平洋が主戦場になる」

 首を傾げるヒューズが眺める中、加藤が立ち上がった。

「しかし、広大な太平洋に、軍事施設がなければ戦争を継続することがきわめて困難になる」

 他の国はともかく、イギリスは理解している。そして、その上で静観している。

「何せ、日本本土とアメリカ本土は8,000km以上ありますから」

 最新鋭戦艦「長門」の航続距離ならば無補給で辿り着けるだろう。
 途中で戦闘に巻き込まれなければ、だが。
 それに、随伴する護衛艦隊は確実に給油する必要がある。
 となれば、補給艦隊も随伴し、さらに陸上部隊を乗せた船団も必要。

「途方もない苦労が伴うため、戦争すら起こりません」

 これぞ究極の平和達成だった。
 この会議は戦争に飽いた欧米諸国がアジアでの戦争を抑制するためでもあった。
 日本の条件提示はその目的に見事に合致している。

「素晴らしい」

 オランダ代表が拍手すると、ポルトガル、イタリア代表も拍手した。
 その拍手はアメリカ代表と日本代表を除き、瞬く間に広がる。

「・・・・ッ」

 アメリカは朋友であるイギリス代表――バルフォアを睨み付けた。しかし、彼はその視線を物ともせず、パチパチと気の抜けた拍手をする。
 そして、拍手を止めると、蔑むような視線をヒューズに向けた。

(狐め・・・・ッ)

 この会議におけるイギリスの目的は、

 1 西太平洋の平和と安定の達成。
 2 アメリカ合衆国との海軍軍備拡大競争の回避。
 3 英国の影響下にある地域への日本進出阻止。
 4 シンガポール・香港等の自治領の安全の維持。

 日本の提案は3を達成し、4を困難にするものだったが、2を著しく支持するものだった。
 日本の対英感情が悪化しなければ、4は達成したも同然である以上、アメリカに与する意味はない。
 何より、バルフォア自身、日露戦争勃発時にイギリス首相を務めた経験を持つ。
 あの時、子どものようだった日本がここまで成長したことに脅威を覚えると共に、好意も持っていた。

「ちょっと待って欲しい」

 拍手が止みそうになった時、ヒューズは手を上げて発言を求める。

「本土というからには準州であるアラスカ、ハワイも認められるのだろうな?」

 フィリピンは無理でもアラスカ、ハワイが可能でなければ、今後の戦略にダメージを与える。
 いや、正直に言うとアラスカなどどうでもいい。
 肝心なのはハワイだ。

「何を言われるか。ハワイは正式な州ではないし、何より島嶼だ。我が国が正式な県である沖縄に軍事基地を作らない意味を正確に理解して欲しい」

 幣原の物言いは我が儘を言う子どもに苦言を呈した形となった。
 言われてみれば当たり前のことにイタリア代表がクスリと笑う。
 さらに、もう帰れると思っていたポルトガル代表が大げさに肩をすくめた。
 場の雰囲気は完全に日本にあった。

「・・・・もういっそ、この問題だけは日米英の三ヶ国で新たな会議を行えばいいのでは?」

 イタリア代表の言葉に、バルフォアの笑みも凍り付いた。
 何度も言うが、米英は戦艦を追加建造したい。
 このため、戦艦「陸奥」が未完成であることが必要だ。
 現在、「陸奥」が未完成である証拠を掴んでいない。だが、言い換えれば、完成しているという証拠もない。
 しかし、時間が経てば、本当に完成してしまう。
 その時点で日本はワシントン会議の条文「現在完成している戦艦以外の廃棄」を米英に迫るだろう。
 そうなれば追加建造は水の泡となる。
 米英の目的はこの会議中に全ての決着をつけることだった。

「ならば、ハワイに軍事基地を作ることを認めましょう。フィリピンへの輸送のためには必要ですから」

 加藤が譲歩する。
 日本側もこれ以上、引き延ばすつもりはなかった。

「その代わり、日本もパラオ、トラック諸島に軍事基地を建造することを許して欲しい」
「この際ですから、イギリス側も香港の要塞化を認める、というのはどうでしょう?」

 加藤と幣原の攻勢に、ヒューズとバルフォアは頷くしかなかった。

「では、細かい規定はまた我々だけで、ということで」

 議決
 ・日米英仏による、太平洋における各国領土の権益を保障した四カ国条約を締結。
 ・上記に伴い、日英同盟破棄。
 ・米英仏日伊による主力艦保有量の制限を決めた海軍軍縮条約の締結。
 ・全参加国により、中国の領土の保全・門戸開放を求める九カ国条約を締結。
 ・上記に伴い、石井・ランシング協定を破棄と山東還付条約の締結。




「―――おかしい」

 条約締結に喜びを隠さない首脳部の裏で、堀悌吉海軍中佐は首を捻っていた。
 本来ならばこの会議、積極的に日本が主導権を握るはずである。しかし、始終アメリカがそれを握った。

(まるで、こちらが何を言うのか知っていたかのようだ・・・・)

 特におかしいのが、主力艦保有量の比率だ。

(これは、調べる必要があるな・・・・)

 そう結論づけ、その困難さに堀はため息をついた。
 何せ日本には統一された情報組織が存在しないのだから。









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