「龍虎の争い」/五



 浜戸川の戦い。
 後にそう呼ばれることとなる、龍鷹軍団と虎熊軍団の決戦は日も傾いた申一つ刻(午後3時30分)頃に始まった。
 この時期の日没は酉四つ刻(午後7時)過ぎである。
 夜間照明を松明に頼るこの時代の戦闘では、日没が戦闘終了の目安――ただし、少数部隊による夜襲を除外――となる。
 故に交戦可能時間は三時間三〇分程度。
 両軍の主力決戦となった関ヶ原の戦い本戦は、戦闘開始から実質的決着まで六~八時間かかった。
 これでも短いと称されるが――あくまで戦力規模的に――、浜戸川の戦いはそれよりもはるかに短い交戦時間であることは間違いない。
 それ故に虎熊軍団は、戦いは翌日だと思っていた。
 龍鷹軍団はその意識の隙を突き、かつ指揮官不在という動揺をも作り出している。
 代償として、忠流の昏倒を引き起こしたが、いざ戦いが始まってしまえば忠流が果たす役割は少なかった。
 事前に指揮権の全権を鳴海直武に移譲していた龍鷹軍団に動揺はない。
 だが、虎熊軍団はそうではなかった。






小瀬晴興side

「―――なんて真似しやがる・・・・ッ」

 小瀬晴興は最前線を睨みつけながら歯噛みした。
 そこでは自軍と長井勢が壮絶な白兵戦を展開している。
 虎熊軍団の中で精強を誇る小瀬勢だが、さすがに押されていた。
 その理由は以下の五つだ。


 ひとつ、目の前で晴胤が倒れたこと。
 ひとつ、岸辺に着弾した光に弾かれた砂利が散弾となり、小瀬勢の最前線を崩したこと。
 ひとつ、晴胤を回収するために晴興が前に出て、動揺する部隊の鎮静化に失敗したこと。
 ひとつ、武藤勢の精密射撃によって立て直そうとした士分をまとめて撃ち倒されたこと。
 ひとつ、長井勢が長柄戦を早々に切り上げ、白兵戦に移行したこと。


 前の三つで兵たちの士気は最悪だ。
 さらに後ろの二つで戦術的に劣勢に立たされた。
 それは士分の多くが鉄砲で死傷したこともあるが、足軽装備の違いもある。
 長柄戦を想定していた小瀬勢の足軽は長柄槍を装備していた。
 その長さは三間(5.4m)と一般的な長柄と言える。
 長井勢も第一線は同じ長柄を用意していたが、続く第二線はさらに短い一間(1.8m)を装備していた。
 これは短い分、槍衾と言った集団戦法には向かない。だが、乱戦となった場合、短いことは取り回しが容易だということになる。
 故に早々白兵戦に移行した前線において、この違いが如実に表れていたのだ。


「も、もう懐に――ガハッ」

 寄せてきた長井勢足軽に長柄を叩きつけようとした小瀬勢足軽だったが、振り下ろすより先に距離を詰めた長井勢足軽に腹を刺し貫かれる。

「こ、こんな邪魔なもん!」

 それを見た小瀬勢足軽が長柄を捨て、腰に佩いた数打の刀を引き抜いた。そして、味方を刺殺した槍を引き抜こうとしている敵へと躍り掛かる。

「やあああ―――ぐふっ」

 それをあざ笑うかのように先程の敵足軽が彼を突いた。
 それは刀の交戦範囲外から突き出された槍によってである。


 絶妙な間合いの槍を持つ長井勢足軽に小瀬勢足軽が追い立てられていく。
 異文化ではなく、同一文化圏での戦闘において、両者の装備に決定的な差は生まれにくい。
 事実、騎馬武者に鉄砲、槍を装備する歩兵という編制は変わらなかった。
 それでも局所的には戦場に合った装備が勝敗を分けることがある。
 長井勢はその状況を、長柄戦の放棄というセオリー外で作り出したのだ。
 また、この戦法で障害となる敵士分を武藤鉄砲隊が排除していたことも大きい。
 小瀬勢の第二陣以降に展開していた士分が慌てて前線に向かうも、同様に切り込んでいた長井勢の士分に邪魔された。

(さすがにつらいか・・・・?)

 小瀬勢三〇〇〇が相手にする敵軍は長井勢三〇〇〇と武藤勢二五〇〇の計五五〇〇だ。
 尤も武藤勢は鉄砲隊だけの投入で、白兵戦には参加していない。
 ただし、投入されている鉄砲は三〇〇を下回ることはなかった。
 乱戦に陥っている前線にも正確に弾丸を送り出し、一発の誤射もなく小瀬勢の兵を撃ち倒している。

(だが、な・・・・)

 小瀬はそっと後方を振り返った。
 いつもならば効果的な指揮で後方から増援が来る。
 しかし、晴胤が昏倒したため、後方に控える晴胤本隊に動きはなかった。
 いや、前線の苦境は分かっているのだろうが、どう動けばいいか分からないのだ。

「殿! 敵の圧力が左翼に集中し始めました!」

 馬廻衆のひとりが声を上げる。
 彼の指差した方を見遣れば、こちらの左方向に騎馬武者が突撃していた。
 霊術の煌めきと爆音が響く度、冗談のように兵が吹き飛んでいる。
 あの方面は武藤勢の鉄砲で特に叩かれていた場所で、戦線縮小のために一部後退を命じていた。
 こちらが退いたことによってスペースが生まれ、騎馬突撃の助走が取れたのだろう。
 結果、後退時の混乱が助長され、崩壊寸前になっていた。

「チッ、仕方な―――って、おいおい!?」

 騎馬武者と共にそのスペースに入り込んだ長井勢の後方を迂回するように武藤勢が動いている。
 武藤勢二五〇〇はそのまま小瀬勢の左翼を抜け、小瀬勢と虎熊軍団左翼に位置する国松勢の間に展開。
 数百の筒先を小瀬勢後方に布陣する晴胤勢に向けた。

「マズイ!」

 晴胤勢の一部は前線の激戦に誘われて前進している。
 前線の戦闘に参加するほどではないが、元の陣所から移動していたため、竹束などの対鉄砲防具は設置されていなかった。
 結果、武藤勢の射撃に無防備なまま晴胤勢は弾丸を浴びる。
 具足の破壊音と悲鳴が響き、放り出された長柄や旗が倒れた。
 応射しようとした鉄砲足軽や弓足軽は続く射撃で早々に貫かれる。
 慌てて長柄を向けなおそうとする足軽までも次々と被弾した。
 ものの三斉射で大混乱に陥った虎熊軍団第二陣(晴胤勢先鋒)向け、小瀬勢左翼に集中していた長井勢が動き出す。
 どうやら左翼集中は小瀬勢をかすめるようにして晴胤勢へ向かうための行動だったようだ。

(となれば・・・・ッ!?)

 小瀬の視線が自勢の右翼に向く。
 その正面に水飛沫を上げて突撃する敵軍が見えた。

「やっぱそうなるよな!」

 長井・武藤と並んで龍鷹軍団第一陣を形成していた瀧井勢。
 いつもは本隊の旗本衆を構成する一部隊である彼らは、無類の白兵戦能力を持つ。
 数は一五〇〇だが、長井・武藤勢の一当てに大打撃を受けた小瀬勢を相手にするには十分だ。
 小瀬勢を瀧井勢で抑え、先鋒部隊が持つ鋭鋒を晴胤勢へと向けようというのだろう。
 本来であれば晴胤直卒部隊によって弾かれていたに違いない攻撃。
 だが、それは晴胤の指揮がないからこそ成功していた。

(あのガキ・・・・ッ。最初から御館をブッ飛ばすつもりで呼び出しやがったなッ!?)

 晴胤が倒れてから龍鷹軍団の総攻撃まで時間がない。
 最初から決めていなければここまでスムーズにいかない。

(それに・・・・・・・・・・・・・・・・やるじゃねえか、"陸軍卿"!)

 小瀬は矢継早に指示を出しながら敵陣を睨みつけた。
 その視線の先に立つ「龍頭」の馬印。
 本来は鷹郷侍従忠流の在所を示すものだが、その下にいるであろう別の部将を幻視する。
 鳴海陸軍卿直武。
 龍鷹軍団の陸戦部隊を総べる実質的総大将。
 忠流から絶大な信頼を受けるこの部将の存在が龍鷹軍団を支えていた。
 何せ目の前で大将が倒れたのは龍鷹軍団も同じなのだ。
 それでも確かな戦術の下に行動しているのは、直武の存在が大きい。

「いったい奴らは何を狙っている?」

 龍鷹軍団の攻勢は、指揮官不在による突発的な攻撃ではなかった。
 見れば両翼も総攻撃を開始しており、それぞれが激戦の最中にある。
 ただの平押しでないことは小瀬勢に対する戦いで分かった。
 ならば、必ずこの総攻撃には意味がある。

「殿! 国松勢が・・・・」
「何!?」

 部下が指差す先――虎熊軍団左翼を見た時、小瀬は絶句した。
 そこに布陣する国松勢の旗が大きく揺れ動き、龍鷹軍団の奔流に呑み込まれようとしていたのだから。






佐久仲綱side

「―――押せ押せぇ!」

 軍配代わりの槍を突き上げ、佐久仲綱は兵を鼓舞していた。
 佐久勢一五〇〇が相手をするのは国松勢三〇〇〇である。
 兵力的に倍の差があるが、敵軍は動揺していた。
 結果、最初の槍交ぜは瞬時に佐久勢が勝利し、槍足軽を蹴散らしている。

「父上の仇を討て!」

 国松勢の士気が低いのもあるが、佐久勢の士気が異様に高いのも優勢の理由のひとつだ。
 国松勢は砂川の戦いにおける連合軍崩壊を招いた側撃の張本人である。
 その全面崩壊で当主を喪った佐久勢にとって、国松勢は仇のひとつなのだ。

(と言っても、本当の仇はあっちなんだけど・・・・ッ)

 仲綱はチラリと小瀬勢を見遣った。
 討死――実際には生死不明――した佐久頼政は小瀬晴興に敗れたと推定されている。
 このため、先鋒を頼政の嫡男である佐久仲綱に任せるという案もあった。だが、この案を忠流が却下した。

(人情より勝利を、か・・・・)

 敵討ちを取らせようという人情よりも勝敗を重視したのだ。
 仲綱は何度も戦場を駆け、佐久勢の部将の一人として活躍した経験を持つ。だが、一軍の大将として戦場に立つのは初であり、そんな彼に戦術上重要な先鋒を任せるわけにはいかなかった。
 総大将としての忠流の判断は納得できるし、評価もできる。
 だがしかし、仇が目の前にいるのに手を出せないやるせなさは消えない。
 だから、それを無理矢理目の前の敵に叩きつけていたのだった。

(だけど、やっぱり武藤勢はすごいな)

 敵陣にできた裂け目に部隊の突入を命じた仲綱は友軍に意識を飛ばす。
 目の前で晴胤が倒れた姿に動揺した国松勢の最前線を切り崩した佐久勢だったが、続く第二陣で勢いを止められてしまった。
 さすがに数が違う。
 逆襲を受けそうになった時、小瀬勢と国松勢の間に入った武藤勢から一斉射撃の援護を受けたのだ。
 横合いからの数十発の弾丸は士分、足軽関係なく吹き飛ばす。
 倒れる長柄が津波のように横の敵部隊を襲い、混乱が生まれた。
 そこで仲綱は撤退の指揮を執り、仕切り直ししたのだ。
 逆襲を受けそうになったのは、調子に乗って乱戦で乱れた陣形で突撃したからだ。

(ありがたい!)

 武藤勢からの掩護射撃は激しさを増していた。
 鉄砲の数が増えるだけでなく、武藤勢の白兵戦部隊も国松勢に接近する気配を見せている。
 それを見て、国松勢は後退する気配を見せた。
 横合いに武藤勢がいることを嫌がったのだ。だが、それは国松勢と最左翼を形成する筑前衆との間に隙間を生んでしまった。
 そして、それを逃す鹿屋利孝ではない。
 大隅衆の一部をその隙間に侵攻させ、筑前衆を片翼包囲するとともに国松勢に一当てさせた。
 こうして国松勢は中途半端に後退したまま動けなくなる。
 武藤勢、佐久勢、鹿屋勢に圧迫され、三正面戦線で戦わざるを得なくなったのだ。

(圧力がなくなった・・・・)

「いける!」

 迫りくる脅威に対応するため、国松勢は戦力を三分し、それぞれの正面に振り分ける。
 その判断は間違っておらず、歴戦の部将であるが故にスムーズでもあった。

「突撃ィッ」

 佐久勢の鉄砲衆が一斉射撃を叩きつけ、その脇から長柄衆が駆け出す。
 距離を離したと言っても一町程度だ。
 槍を構えた密集陣形でも一駆けの距離である。
 左右に兵を回して槍衾の再編をしていた国松勢は佐久勢の突撃に対し、遅れを取った。
 佐久勢と国松勢の正面に展開する単純兵力は大差ない。
 数と装備品に大きな違いが見られない部隊同士の戦闘で勝敗を分けるのは、士気と指揮だ。
 士気は言わずもがな、指揮も部隊展開の一瞬の隙を突いた佐久勢に軍配が上がった。
 結果、国松勢は大きく崩れ、戦線東部の戦況は大きく龍鷹軍団へと傾く。
 それでも数が多い虎熊軍団が崩壊するまで、もうしばらく時間がかかりそうだった。






昶side

「―――うむ、見事じゃな」

 うんうんと頷き、昶が満足そうに片目を細めた。
 いつも閉じている眼には眼帯を付け、周囲に近衛を侍らせて戦場に立つ姿は戦乙女っぽい。
 その衣装が軽甲をつけた巫女装束であることもそのイメージに拍車をかけている。

「敵左翼が崩れそうなのが分かるわ」
「佐久の嫡男も意気込んでおるようですな」

 上機嫌な昶に年配の近衛が間の手を入れた。
 龍鷹軍団の本陣から自軍右翼方面が大きく押しているのが分かる。
 足軽が作った裂け目に武者衆が切り込み、派手な霊術の爆発が敵を吹き飛ばしていた。
 すでに国松勢の第一陣が壊滅しているため、この第二陣を突破してしまえば部将・国松貞鑑に手が届く。

「ほれ見ぃ、紗姫。久しぶりの勝ち戦のようだぞ?」

 昶が目にした前の戦場は加勢川の戦いだ。
 あの戦いでは序盤から火雲親晴率いる聖炎軍団に押しまくられた。
 それはそれで作戦だったのだが、見ている側としては押している方が気分がいい。

「紗姫?」

 反応がない槍娘(発光機能付き)を訝しんだ隻眼皇女は振り返り、槍娘の方を確認した。

「うぅ・・・・私って・・・・・・・・」

 ずーんっと重石を頭に乗せられているかのように項垂れている。

「どうしたのじゃ?」

 昶は全身を反転させ、崩れ落ちている紗姫の隣にしゃがんだ。

「開戦の火蓋を切るべく、ひゃっはーしていた輩とは思えんの」
「・・・・ええ、そんな時期もありましたね」

 対軍級とも言える神装というのにあまりの使用歴の少なさに憤っていた。
 だからこそ、今回は使うと聞いてわくわくしていたのだ。

「手を上げたあ奴に喜んで飛んで行ったくせに」

 「飛んで行った」は比喩でもなんでもない。
 ピカピカと体を光らせながら待機していた紗姫は、中州で忠流が手を上げるなり、体を光の粒子に変じて飛翔した。そして、忠流の手の中で片鎌槍<龍鷹>として顕現したのだ。

「どうじゃ? 久しぶりに【力】を開放した気分は」
「開放した時は本当に、『開・放・感!』といった感じなんですが、その後の罪悪感というかなんというか・・・・」

 口をもにょもにょさせてはっきりしない紗姫。

「なんじゃ、らしくないのぉ。いい感じにぶっとばして、あ奴を使い潰したというに」
「ぐふっ」

 昶の言葉が紗姫をえぐり、彼女は辛そうに胸を抑えた。

「ひでぇ」
「容赦ないです」

 ひそひそと忠勝と忠猛が話すが、丸聞こえだ。
 それでも昶の言葉の刃は止まらない。

「ほれ、見よ、この姿を」

 昶が指差した先には忠流が俯せで倒れている。
 顎が地面について顔を上げているので、苦しそうに見えた。
 因みにその顔は敵陣を向いており、倒れてもなお敵軍を睨みつけているようだ。だが、残念ながら幔幕に邪魔されて前線を見ることはできない。
 そもそも幔幕がなかったとしても、視線の高さが低いので、やっぱり見えなかっただろう。
 つまり、この体勢には意味はなく、忠流を本陣まで連れて帰ってきた忠勝が放り出したままの体勢で放置された結果だった。
 放り出す忠勝もそうだが、そのまま放置する幕僚や近衛も大概である。
 しかし、紗姫はそんな扱いには何も言わず、彼の前で項垂れていた。

「うぅ・・・・」

 総大将が決戦でこの姿。
 下手人は誰が何と言おうと紗姫だ。
 忠流が織り込み済みで振るったとは言え、彼が持つ霊力を余すことなく吸い尽くしたのは彼女なのだ。
 だというのに<龍鷹>の一撃は晴胤の迎撃を受けて照準が逸れ、何もない河原を穿っただけである。
 対軍神装と言われながらも、この攻撃でただひとりも死者は出ていなかった。
 負傷者と、何より晴胤が昏倒して指揮不能という効果は発揮したが、紗姫の胸は晴れない。
 討ち取っていれば、今この時に交わされる干戈はなく、結果として多くの兵の命を守ったのだから。

「ぅう・・・・ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」

 紗姫は忠流に土下座する勢いで頭を下げた。
 それでも昶の追撃は終わらない。

「・・・・土下座はしないんじゃの」
「はぅ!?」

 ポツリと呟かれた言葉に胸を貫かれた紗姫は忠流の傍に倒れ込んだ。
 仲良く地面に寝転がる姿は異様だが、側近連中はもちろん、近衛衆も気にしない。
 その理由は簡単だ。

「ま、総大将を喪おうと大勢には影響ないの」

 「死んでない死んでない」という忠勝の言葉は無視だ。

(それにしても、霜草茂兵衛の姿もないな)

 いつもは忍びと分からない姿で本陣にあり、時折部下の忍びに命令を出している上忍がいない。
 それは忠流の密命を受けて何かしているという証拠。

(奴も霊装をもらっておるから、戦働きに出ているのかもな)

 この戦闘、敵が混乱する短い間にどれだけ叩けるかが勝負だ。
 ならば単体で戦闘力の高い霊装使いを本陣で遊ばせておくはずがなかった。

(ま、例外もいるが)

 昶は前線を見つめる男の背中を見る。

「まるで水を得た魚のようじゃ」

 そう言って目を細めた先で、鳴海陸軍卿直武は喜々として指示を出していた。

「弥太郎にもっと押すように伝えよ、敵後方はもたもたしていてまだ出てこん」
「統教へ、佐久の小倅への援助をもう少しやらせよ」
「信成へ、あまり敵を蹴散らすのに夢中にならず、全体を見ろと伝えよ」

 全体をしっかり把握し、的確な指示を出す。
 その指示を伝えるため、使番の武者が本陣を引っ切りなしで出入りしていた。
 彼らは本陣へ戻るなり、水を一口飲んで再び出ていくことを繰り返している。
 多くが旗本として知勇兼備の若者たちであり、将来の中間指揮官として期待されている者たちだ。

「使番の数が足らんな。―――猛政、近衛を借りてよいか?」
「問題ない。―――第二班、手伝ってやれ」

 隣に立っていた加納近衛大将猛政が応じ、彼の指示で十数名の武者が持っていた母衣をつけながら走ってきた。
 母衣は使番の象徴であり、迅速に味方部隊本陣まで辿り着くためのマークだ。
 近衛衆も忠流の指示を伝えるため、直武指揮下の旗本衆使番とは別の母衣を持っているのだ。

「よぉし来たな」

 すぐさま直武が指示し、彼らはほとんど彼の前で止まる間もなく、方々へと走り去った。

「いやぁ、全権を得ていると楽でいいな!」

 数年若返ったかのような笑顔を見せる。

「ほぉ? どういうことだ?」

 紗姫がプルプル震えたまま反応がなくなったので、昶は直武の傍に寄っていた。

「なに、普段は指示した後に忠流様に説明しているのですが、今回は本人が気絶しているので省けるのです」
「お前もなかなかに毒を吐くな!? びっくりしたわ・・・・」

 昶をしてもツッコミを入れさせる毒。
 実質的総大将よりも若い主君に戦を教える方が重責とか、どれだけ仕えにくい主君なのだろうか。

「何せこのお方、思いつきでとんでもない行動しますからな」
「確かに」

 戦略的奇襲を好む気質を持つ忠流の下、いざ戦が始まれば直武に丸投げ。
 直武は事前準備もなく、刻一刻と変わる戦況に対応しながら指揮を執らなければならない。
 それも忠流に教えつつ、だ。

「それに比べ、今回はただ数が多いだけの相手ですからな」
「『ただ数が多いだけ』か・・・・」

(これほどの将星が西海の果てに埋もれていたとはのぉ)

 三万を超える敵戦力。
 さらに自身初の二万七〇〇〇の指揮。
 それを簡単なことと言って笑える部将など、この列島中を探し回ってもそういないだろう。

(いや、敵にもいる)

 万を超える軍を扱い、山陰戦線を戦い抜いた虎熊軍団の英傑――虎嶼晴胤。

(だが、奴は今いない)

 思わず笑みを浮かべてしまう。

(ああ、なるほど。こやつが思いついたのは、"これ"か・・・・)

 晴胤排除による虎熊軍団の弱体化。
 兵の数は脅威だが、それをまとめることができなければ烏合の衆と化す。
 忠流は自身では正面から虎熊軍団を打ち破れない故、搦め手で敵大将の無効化を狙った。そして、その後を直武に託したのだ。

(こいつはそれが分かっていて、年甲斐もなくはしゃいでいるのだろうな)

 主から受ける絶大な信頼はプレッシャーだが、気持ちのいいものなのだろう。

「勝てるか?」

 昶の端的な問いに直武が苦笑した。

「勝利条件が何かによって答えは変わりますが・・・・」

 直武は昶から視線を前線に戻す。そして、そのままの力強い口調で続けた。

「ここまでお膳立てされていて、負けるなどあり得ませんな」

 「負ける=この場から撤退」はないと言い切った直武は、その視線をとある一点に固定する。

「あそこ、崩れているな」

 戦上手な武将を表す言葉に「隙間探しの名人」がある。
 まさにその力を持った直武が大きく軍配を振った。

「軍太鼓、音頭七で叩け! 頃合いだ!」

 直武が命じたとおりのリズムで太鼓が鳴り、それを聞いて麾下の軍勢が動き出す。
 戦闘開始から一刻、戦いは第二段階へと移行した。










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