9月18日



「―――オジサン、今日は何日?」

 川釣りをしていた大熊茂伸31歳は突然、背後から声を掛けられた。

「あん?」

 と振り返ってみれば、そこにいたのは小学校中学年と思しき少女だ。
 祭りでもないのに着物を着ているその少女は腕を後ろに組み、無邪気な笑顔を浮かべている。

「あー、確か15日だぞ」

 時計に視線を落とし、さらに川に視線を戻してから言った。

「ホント? ありがと。これお礼だよっ」
「あん?」

 浮きから視線を少女に戻すとそこには少女の姿はなく―――
 ビチビチビチ。

「・・・・・・・・・・・え?」

 ポロリと咥えていた煙草がお気に入りのジャケットに落ち、それを焦がしてしまう。しかし、それを気にする余裕は彼にはなかった。
 彼は釣り竿から手を離し、思い切りその『お礼』に指を突きつける。

「はぁ!? 今何月だよ!?」

 そこには跳ね回るサケが置かれていた。






「―――んー、今日はまあまあだったかなー」

 主婦としての戦いを終えた渡辺瀞は夕陽に長い影を作りながら家路を歩いていた。
 今日は9月17日。
 統世学園に正式に転入してからもう少しで3週間になる。
 結局は元のクラスに戻って、ただ夏休みのために帰省した感じになっていた。
 というか、瀞が休学したことについては学園の要職に就いている者と、その要職の権限を軽く突破して情報収集できる者たちしか知らない。

「―――しーふぁんっ」
「一哉は何時ぐらい帰ってくるかな」

 最近、一哉は忙しいのか、放課後になるとすぐにどこかに消える。

「メールでもしておこうかな」
「―――しーちゃんっ」
「ふぁいっ」

 突然、声が聞こえて瀞は跳ね上がるようにして返事をした。
 なまじ気配に鋭いと、こうやって気付かなかった時にびっくりするのだ。

「・・・・って、どこ?」
「ここふぁよー」
「え?」

 ドンッという効果音付きで真正面に何者かが不時着した。
 その音に反応して瀞は大きく飛び退さると、"気"を全身に巡らせて臨戦態勢に入る。

「って、緋・・・・?」
「はが・・・・ただいま、しーちゃん」

 50センチは超えるであろう魚を口から放し、一哉の守護獣――緋はにっこりと微笑んだ。

「これ、おみやげー」
「あ、うん・・・・」

 思わず受け取ったその魚は―――

「って、サケ!? うそ!?」

 サケは死んでいたが、今まで高空を飛んでいたせいか、見事に氷付けとなっていた。

「北海道と言えば熊と鮭だよねっ」
「そうだけど、そうじゃないっ」

 そんなサケが解凍されようとしていたが、水術で冷凍を促す辺りがまだ冷静だったかもしれない。

「でね、明日誕生日だから祝って」
「突然!? 今、話飛んだよ!?」

 急展開にもう頭がついていかない。

「って、あれ? 明日、誕生日?」
「うん。9月18日だよ。北海道の釧路で日にち聞いたら15日って言うから、急いで帰って来ちゃった」

 帰ってきたとはほぼ一直線に飛んできたのだろう。
 3000キロ近い距離をわずか二日で移動してきた彼女に驚くが、そんな些細なことは気にしなかった。

「緋の誕生日ってことは・・・・」
「ことは?」

 可愛らしく小首を傾げる緋に問い掛ける。

「一哉も?」
「そうだよっ。熾条一哉、16歳のバースデー」
「えぇーっ!?!?!?」

 今度こそ瀞は心底驚いた。
 思わず荷物を気にせず、思い切り両腕を上げて絶叫する。
 その姿を真似て、緋も両手を上げてもう一度言った。

「だから祝ってねっ」

(ああ・・・・目の前が真っ暗になるってこういうことを言うのか)

「あれ? しーちゃん?」

(ど、どうしよー・・・・・・・・)



「―――来たが?」

 熾条一哉は放課後、第四校舎裏にひとりで来ていた。
 理由は簡単、喚び出されたからだ。
 ご丁寧にカミソリを仕込まれて。

「おいおい、俺はひとりだぞ? それに怖じ気づいたんじゃないだろうな?」

 一哉は両手をズボンのポケットに入れたまま見えない敵を挑発する。

(敵意の数から12。・・・・いや、それ以上か・・・・)

 殺意までも行かないとしても、多くの敵愾心が向けられていることは確か。

「―――本当にひとりで来るとはな」

 やがて校舎の2階から4人の男子生徒がロープを伝って降りてきた。

「その勇気に感服するぜ」
「大勢を揃えないと前に現れない小心者っぷりにも感服だ」
「なんだとぉ!?」

 ひとりが肩を怒らせ、一歩前に出る。
 呼応するように周囲に散開していた敵意が膨れ上がった。

(21。・・・・多いな)

「余り舐めた口きいてっと、痛い目じゃすませねえぞっ」

 構えられるのは数々の武器。
 敵意が殺意に変わる瞬間が来た。

「それで? 用件は?」

 武器を持つ、という優位に立たせてから行う交渉は相手を饒舌にする。
 相手が言う必要のないことまで聞き出し、その意図を図るのがネゴシエーターだ。

「渡辺瀞と同棲しているとは本当か?」

 リーダー格の男の問いに数々の飛び道具が向けられる。

(立ち位置からして、ボーガンなど非火薬系から、実際に暴徒鎮圧に使うゴム弾を発射するタイプまで、か。揃えたなぁ)

「まさかそんなことを訊くために今まで様々な嫌がらせをしてきたのか?」
「違うな。あの嫌がらせは俺たちがまとまる前のことだ」

(なるほど。時間が経って同志を集め、組織化したか)

 ならば話が早い。
 有象無象は一掃するには厄介だが、一度集まってしまえば一網打尽にできる。

「それで? どうなんだ? 順番は逆だが、俺はお前の問いに答えた。ならお前も―――」
「確かに瀞は俺の家で生活している。今も夕食の買い物をしている頃だろう」
『『『―――っ!?』』』
「・・・・・・・・・・・・・・・・残念だ」

 言葉と共に隠れていた者たちが姿を現した。
 スナイパー役の者たち以外の白兵戦要員なのだろう。
 そこいらの不良たちと抗争を起こせそうな力を持った奴らが各々の武器を持って参集した。

「その事実は変えられないにしても・・・・・・・・その身を以て俺たちの腹の虫を収めさせてもらうっ」
「「「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっ!!!!!!!!!」」」

 彼らが地を蹴り、スナイパーたちが引き金を―――

「―――たぁいりょうっ、たいりょーっ」

 馬鹿みたいに楽しそうな声と共に第五校舎屋上から送り込まれる矢。
 それらは第四校舎の窓から一哉を狙っていたスナイパーたちをまとめて薙ぎ倒した。

「なっ」

 突然の事態に白兵戦部隊は足を止める。そして、それは致命的な間となった。

「―――ふぅん、なるほど。"情報"通り、晴也関連で変なことが起きてるわね」
『『『―――っ!?』』』

 ゾッとするほどの寒気を孕んだ声。
 それに震え上がるようにして彼らは背後を振り向く。

「この闘争の理由、ちょぉっとあたしに聞かせてくれない?」

 そう言って己の武器である鎖鎌を肩に担ぐ少女。

「で、出た・・・・」
「不正委員のエース・・・・」
『『『山神綾香ッ』』』

 鎖を擦り合わせる音と共に歩いてくる"死神"を前に、居並んだ猛者たちは立ちすくんだ。

「おま、卑怯だぞ!? ひとりで来いって言ったろ!?」
「俺は誰にも教えてないぞ」

 文句を言うリーダー格に一哉はひらひらと手を振ってみせる。

「なら何でこんな状況なんだよ!?」
「俺はただ、晴也に『放課後は第四校舎裏で待ち合わせだ』と言っただけだぞ? ああ、あと、山神に『第四校舎で晴也が何かするかも』っていうガセネタを掴ませたなぁ」
「・・・・あ、・・・・・・・・あぁ・・・・」

 確かに一哉は『誰も呼んで』いない。
 彼らは自発的に訪れただけだ。だが、誰でも予想できる。
 愉快犯である晴也は『待ち合わせ』と言われれば覗きに行くだろうし、綾香は晴也関連だと必ず顔を出す。
 統世学園に在籍しているものならば、誰でも分かる事実だ。

「じゃあな、頑張れ」
「お、お前ぇっ」

 彼は一哉に手を伸ばすが、遠い。
 それよりも近くにいた悪夢が言った。

「とりあえず、全員が校内銃刀法違反ね」



「―――ど、どどどどどうしよう・・・・」

 家に帰り、熟練の域に達した包丁捌きを見せながら瀞は混乱していた。
 緋は一哉の部屋で寝ている。
 さすがに北海道から飛んできたのは疲れたらしい。
 一哉の枕を抱き抱え、くぅくぅと寝息を立てる緋は本当に可愛かった。

「と、とりあえず、あのサケを料理する? 天然物っぽいし・・・・ってダメだ。私サケを料理したことがない・・・・・・・・」

 サケは今、氷付けにされたまま発泡スチロールに放り込まれている。
 カッチコチしたため、それだけでも充分保温できているだろう。

「というか、手作り料理なんてしてもいつもと変わらないよね・・・・」

 高速で切り分けられた野菜をフライパンに入れ、手首のスナップで炒めていく。
 時たま、菜箸を入れられてかき混ぜた。しかし、瀞の視線は斜め上に向いている。

「んー・・・・」
「―――ただいま」

 ガチャリと玄関が開く音がして、一哉の気配が伝わってきた。

「あ、おかえり〜」

 振り向くことなく、一哉がダイニングに入ったことを認識する。

「遅かった・・・・って、どうして木の葉をいっぱいつけてるの?」
「いや、ちょっと死神に襲われてな」
「?」
「それより手が止まってるぞ」
「ぅわっ、たったっ」

 慌てて菜箸で野菜をかき混ぜたが、わずかな時間でもそれらは少しだけ焦げてしまった。

「・・・・ま、いっか」

 こういうこともある、うん。

「―――ぅお!? 何かいる!?」

 一哉の部屋の方から驚きの声が聞こえる。

「瀞、いつの間に帰ってきたんだ、こいつ」

 腰に緋を抱き着かせたまま歩いてきた一哉。

「むにゃ・・・・ただいまぁ」
「くすくす。今日の夕方だよ。サケ咥えて帰ってきた」
「・・・・・・・・相変わらず非常識な・・・・」

 一哉は巻き付いていた手を解き、まるで万歳するかのように腕を持ち上げて緋を宙づりにした。

「おい、盗った金はどうした?」

 プランプランと体を揺らし、囁くように問う一哉。
 それを微笑ましく思いながら瀞は食器の準備をする。

(んー、誕生日、か・・・・)

 ふと手を止め、ふたりを視界の中心に収めた。

「だいじょぅふ・・・・使い切ったから」
「大丈夫じゃない。っていうか、起きてるだろ、お前ッ」
「きゃー、いちやが怒ったぁ」
「緋ッ」

 バッと一哉の手から逃れ、走り出す緋を追いかける一哉。

(やっぱり、何かして上げたいよね)

 瀞は想いを確認して微笑む。

「はいはい、暴れないの。埃がたつでしょ」

 そして、とりあえず、じゃれ合う―― 一哉は否定するだろうが――ふたりを諭しにかかった。






「―――はい、はい。お願いします」

 翌日、9月18日の昼休み、瀞は屋上で隠れるようにして電話をかけていた。

「すみません。我が儘言っちゃって」

 ペコペコと電話先の人間に頭を下げることによく性格が表れている。

「よし、目処はついた」

 パチンと携帯電話を折り畳み、後の行程を考える。

「んー、服は・・・・これでいいかな。・・・・あとは緋だねー」

 緋は今、一哉と共にいた。
 もちろん、姿は一哉以外に見えなくしているので、瀞ですら知覚できない。だが、あのベッタリっぷりを見ていれば容易に想像できる。

(ああ、だから、一哉は授業中、ずっと閉口してたんだ)

 きっと背中辺りに張り付いていたのだろう。
 一哉は今、一個人としての生活を楽しんでいる。

(それなのに・・・・私は・・・・)

 先程の電話の主は渡辺宗家繋がりで知り合った人だ。
 向こうは瀞を「渡辺家御令嬢」として見ている人物であり、それを承知で瀞はとある頼み事をした。
 これは一哉が嫌う「権力」ではなかろうか。

(そんなことでもてなすなんて・・・・ダメなことかな・・・・・・・・)

 あまりにも時間がないからと言って、もっと他のことがあったのではないか。
 たとえば、普通に町中で何かを買ってプレゼントとかもあったのではないか。
 8月の夏祭りのように日本の文化や伝統を見せる方法もあったのではないか。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 瀞は教室に戻る気にならず、屋上の手すりに肘を乗せ、音川町を見下ろした。
 統世学園の屋上にフェンスなどなく、1.2mほどのコンクリートが縁にそびえている。そして、万が一落下した場合のネットもあり、景色を遮るものは何ひとつなかった。

(どうしよう・・・・)

 事前の準備は全て整った。だが、決行するには瀞の行動がいる。

「―――おや、こんなところに」
「え?」

 後ろから聞こえてきた声に瀞は振り向いた。

「珍しい。ひとり?」

 声の主はクラスメートである来栖川――クリスだ。
 陽光を反射するまばゆい金髪と碧眼が特徴的な少年である。

「珍しいかな?」
「いやぁ、珍しいと思うぜ。だって、いつも一哉や山神といるだろう?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 言われてみればそうかもしれない。
 ここに転校してくるまではひとりでいることが多かったが、統世学園での生活はいつもどこかしらに友人の影があった。

「学園中のヤローが声かける機会を窺ってるって言うのに・・・・ハッ」

 急に電撃を受けたかのように立ちすくむ。

「ま、まさか告白タイムか!? オ、オレいい時に来たな。隠れてていいか?」

 わたわたと慌て、隠れる場所を探すクリス。

「違うよっ。それに、もしそうだとしても失礼だよっ」

 瀞も突然のことに顔を赤くし、両手を振って否定する。

「あー、そうか。昨日、不正委員によって一斉検挙されて睨み合いがなくなったから、誰かが動いたんじゃないかと思ったんだけど」
「?」

 クリスの言葉に首を傾げた。

「検挙って?」
「あ、気にしたら負けだって。じゃ、じゃあ、オレは降りるとするかなぁ、ハハハ」

 乾いた笑みを貼り付けて降りていく。

「???」

 尚も「?」を浮かべながら続いた瀞は先程までの悩みをなくしていた。



「―――それで、どうして俺はこんなところに連れてこられてるんだ?」
「あはは・・・・」
「笑って誤魔化すな」
「あぅっ」

 ビシッとデコピンするとカクンと首が仰け反った。

「ふんふんふん♪」

 そんなふたりの足下で緋は上機嫌に踊っている。

「あったらしい服〜、きっれいな服〜♪」
「気に入った?」
「うん、ありがと、しーちゃん♪」

 正体は神獣であっても形が女なので、やはりそういうことは嬉しいのだろうか。

「で?」
「ま、まあまあ、気にしないで。―――あ、渡辺です」
「渡辺様ですか。はい、確かに。こちらになります」

 一哉たちは高級と言っても差し支えないレストランにいた。
 一哉と瀞は統世学園の制服、緋は雰囲気を壊さない程度の礼服である。

「こちらのお部屋にどうぞ」

 と言って通されたのは一般客とは隔絶した場所だった。
 それなりに広い部屋にテーブルがひとつ。
 まさに貸し切り状態だ。

「んー、一哉、何か飲みたいものはある?」
「別に」
「あかねはオレンジジュースがいいよっ」
「うん。―――じゃあ、オレンジジュースがひとつと・・・・」

 瀞はメニューから目を上げ、ウェーターににっこりと笑って告げた。

「今日の料理のオススメで」
「・・・・畏まりました」

 若いウェーターはわずかに頬を赤らめながら一礼してオーダーを通しに行く。

「・・・・・・・・御嬢様だな」
「え!? そ、そうかな・・・・?」

 ウェーターの背を見送った一哉が呟いた言葉に動揺する姿はいつもの瀞だった。

(しっかし・・・・)

 一哉は緋の前掛けの世話をしている瀞を見ながら思う。
 普段は庶民的に見えてもやはり生まれてから十五年間、地元の旧家の御嬢様として育ってきたものは抜けないのだろうか。

(権力、か・・・・)

 この空間を貸し切りにした背景には【渡辺】が確実に関わっている。だから、瀞は渡辺宗家の権力を使って今ここにいるのだ。

(そんな連中、たくさん見てきたのにな・・・・)

 時の権力者たちと戦い続けてきた一哉はそんな権力者の嫌な部分ばかり知っている。だが、それ以外も知っていると、このような行為をされても嫌みたらしくなかった。

(いや、瀞が自分を自慢するためにこんなことしでかしていると思ってないから、か・・・・)

 それだけ瀞を一哉が信頼している、という証拠なのだろう。

(・・・・変な奴)

 思えば瀞ほどすんなりと一哉の内側に入ってきた者はいない。
 瀞は殺伐とした世界で生きてきた一哉に染み渡るようにしてその存在感を発揮していた。

(瀞自体の気配はびっくりするほど希薄なんだけどな・・・・)

 それでも裏表のない瀞のような性格は一哉にとって新鮮である。

「一哉?」

 顔を上げれば、心配そうな表情をした瀞がいた。

「料理、おいしくない?」
「・・・・いや、そんなことはない。初めて食べるが、ちゃんとうまいしな」

 ニヤリと笑ってみせる。

「あ、それって私に対する当てつけかな。・・・・明日のごはん抜きにするよ」

 ぷくっと頬を膨らませて拗ねる瀞。

「それで、今日はどうしたんだよ?」
「あれ? もしかして、一哉、忘れてるの?」
「忘れてる?」

 腕を組んで首を傾げる一哉に瀞は言った。

「今日、一哉の誕生日でしょ?」

 誕生日。
 生まれた日と同じ月の同じ日のこと。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ああ」
「『ああ』ってホントに忘れてたの?」
「いや、うん。大したことじゃないから」
「・・・・大したことだと思うよ」

 ため息をつき、顔を下げる。
 髪の毛がその表情を隠すが、呆れ顔なのは容易に想像できた。

「なるほど。それで・・・・これ、か」

 一哉は辺りを見回す。

「う、うん。おいしい料理を食べて貰おうと思ったんだけど・・・・私じゃ、その・・・・」

 思い出す、というほど昔のことではない記憶。
 間違いなく、張り切った末に阿鼻叫喚の有様になるだろう。

「懸命だな」
「ム・・・・」
「それにしてはやりすぎじゃないか?」

 拗ねた視線を受けた一哉は苦笑しながら再び辺りを見た。

「わ、私はここまで言ってないよっ。ただ、ただ予約しただけだもんっ」

 瀞が言うからにはそうなのだろう。
 ただ、店の方が勘違いしてこういう展開になったと予想できる。
 瀞が思っていたよりも【渡辺】の名前は大きかったのだ。

「ま、起きたことは仕方がない」
「そうそう、気にしちゃ負けだよっ」

 ふたりの会話を余所に料理と格闘していた緋は口元にソースをベッタリつけたまま笑顔で言う。

「そ、そうだよねっ。負けだよねっ」

 そう言って瀞は「オススメ」を一気に呷った。



「―――ったく・・・・」

 一哉はくぅくぅと呑気に寝息を立てる瀞を背負いながら夜道を歩く。
 街灯が少ないからか、この道は人通りが少ない。
 「危ない夜道」という言葉が当てはまる場所だが、しっかりとした実力がある一哉には人気がなく歩きやすい道だ。

「しーちゃん、よく眠ってるね〜」

 瀞にプレゼントされたという新しい服を着た緋は突然走り出したと思ったらすぐに戻ってくると言う幼子の行動をしている。

「緊張したんだろうな」

 態度からして一哉が権力を嫌っているのに使った自分を不安に思っていたのだろう。

「全く、それで安心した瞬間、あれ、か・・・・」

 瀞が呷ったのはワインだった。
 これも店が頑張って出した高級品であり、ただでさえ度が高いのにあんな飲み方をすれば酔い潰れるのも当然だ。

「よっと」

 ずり落ちかけた瀞を背負い直す。
 店の方は心配してタクシーを手配しようとしたが、一哉はそれを断っていた。
 何となく、こうして歩きたかったのだ。

(いや、瀞を背負っていたかった、という理由ではないぞ、うん)

「緋」
「なに?」
「お前だろ? 瀞に誕生日のことを教えたの」
「そうだよ。祝ってもらおうとしたんだよ、しーちゃんに」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 その無邪気な笑みの裏を見透かそうとしてしまうのは悪い癖なのだろうか。

「だーかーら、今度はしーちゃんの誕生日を祝わないとね」
「瀞の誕生日って・・・・」

 記憶を掘り起こす。
 初めて会った日の翌日、あの制服のスカートから抜き取った生徒手帳に記載されていた生年月日。

「3月3日、か。遠いな」

 瀞の誕生日。
 それは厳しい冬が終わりを告げ、ようやく春へと季節が動き始める桃の節句。

「あはは。・・・・じゃ、いちや」
「じゃ、って?」

 後ろ手に腕を組んで後ろ足でテテテと離れていく緋。

「今度は南に行こうかな〜。・・・・お金余ってるし」
「余ってるのかよっ。ってか、何処へ行く?」
「じゃね〜。ヒグマがあかねを呼んでるよっ」
「いや、北だろ、それ」

 ツッコミを入れるも緋はそのまま走り去ってしまった。

「ん・・・・」

 背中の瀞が身じろぎする。
 もぞもぞと柔らかい体が背中の上を移動した。

「はふぅ・・・・」

 ようやく安心できる場所を見つけたらしい安堵の息は一哉の右耳を優しくくすぐる。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 背筋にぞくりとした感触が走った。

「こ、こいつは・・・・」
「・・・・Happy Birthday」

 耳元で告げられた言葉に思わず足を止める。

「・・・・・・・・ありがとう」

 そう言うと、背中で瀞が笑ったような気がした。










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