はじめての手料理


 

「――― 一哉、今夜何食べたい?」

 6月のある日、渡辺瀞は登校途中に隣を歩く同居人――熾条一哉を見上げながら言った。

「あー・・・・」

 一哉は若干、斜め上に視線を飛ばし、そのまま思考の海へと沈む。
 瀞としてはそろそろレパートリーも尽きてきたことだし、新しい料理に挑戦したいと思っていた。
 瀞は一哉を連れて調理器具やその他諸々を買い揃えている。
 おおよそ、家庭料理と言われるものならば作れる環境にあった。

「いきなり言われても浮かばないなぁ」
「うっ・・・・ま、まあ、そうだけど・・・・何かないかな? 具体的でなくてもいいんだけど・・・・」

 料理を作り始めて思ったが、毎日毎日献立を考えるのは割と苦痛だ。しかし、手抜きはしたくない。
 だから、少しでもヒントが欲しかった。

「んー」

 考えが長くなりそうなので、瀞は前を向くことにする。
 この前、一哉の顔を見ながら歩いていたら、危うく転けかけた。

(首も痛いしね)

 一哉が高いのではなく、瀞が低いのだ。
 一哉自身170センチ前半だろうが、瀞は153センチしかない。
 約20センチの差は傍にいると意外と大きい。

(あ、猫が歩いてる)

 雑種と思しきその猫はまだ気温の上がらないアスファルトの上をのんびりと歩いていた。

(これが昼だとやっぱり辛いのかな? アスファルトとの距離が近い分)

 歩きながら手を振ると「にゃぁ」と鳴き返してくれた。
 ちょっと気分がいい。

「―――これだ。『お袋の味』」
「はい?」

 ポンと手を叩きながら繰り出された言葉に瀞は疑問符を浮かべながら一哉の顔を仰ぎ見た。

「具体的じゃなくてもいいんじゃなかったか?」
「いや、まあ、そうだけど・・・・」

 今度は瀞が悩む番だ。

「『お袋の味』かぁ・・・・」

(一哉は九州出身だよね? ・・・・あ、でも、ずっと外国にいたら・・・・中東の郷土料理? そんなの無理だよ・・・・)

「お〜い、瀞?」

 パタパタと目の前で一哉の手が振られるが、瀞は気付かない。
 やがて諦めたのか、一哉は黙って隣を歩き始めた。

(ちゅ、中東の郷土料理って・・・・材料は日本でも手に入るのかな・・・・。・・・・そもそも、一哉がいたのってどの国?)

 根本的なところに気が付いた瀞は顔を上げ、一哉に問い掛けようとする。
 その時―――

「―――っ、と、瀞ッ」
「わっ」

 思考の海にどっぷり浸かっていた瀞の腕を一哉が引っ張り、軽い体がポスッと一哉の腕の中に収まった。
 その眼前を大型トラックが猛スピードで通り過ぎる。
 顔に受けたその風に瀞の顔は蒼白となった。
 一哉がいなければ、見せられない姿になっていたに違いない。

「あ、ありがと・・・・」
「気にするな」
「あ・・・・」

 ポンと頭に手が置かれた。
 頭上に感じる大きな掌の感覚。

(やっぱり男の子だなぁ・・・・)

「いや、やっぱ気にしろ」
「?」
「献立を考えるのはいいが、自らをバクテリアに捧げることはない」
「・・・・それ、亡くなった人たちに失礼だよ」

 思わず返した一言にくすりと笑った一哉は瀞を離して歩き出す。

「別に俺限定に拘らず、世間一般で言う『お袋の味』でいいんじゃないか?」
「・・・・それが難しいんだよぉ」

 ため息をつき、瀞は小走りに一哉の背中を追いかけた。


 瀞は学園に着くとすぐさま行動を開始する。
 大本命であった料理部の友人は今は破壊力コンテストのレシピ作りで忙しいと断られてしまった。
 相も変わらず、訳が分からない部活動が集まっている。


「―――うー・・・・」

 昼休み、瀞は教室で図書館から借りてきた料理本と睨めっこしていた。
 体勢は机に突っ伏すようなもので、腕を伸ばして本を見ている。
 だらしがないことこの上ないが、気にする余裕はなかった。

「どうしたの? うんうん唸って」
「あ、綾香・・・・」

 本から顔を上げれば、呆れたような表情で山神綾香が見下ろしていた。

「料理? ・・・・ああ、食の全権握ってるものね」

 何故か遠い目をする綾香。

「そういえば、綾香って下宿だよね?」

 統世学園は地方からの入学生も多く、綾香もそのひとりである。

「そうよ。・・・・1人暮らしじゃないけど」
「食事は?」
「主に同居人。だけど、大学とかで忙しいとあたしが作るわよ。・・・・と言っても、凝ったものとかはできないけどね」
「・・・・はぁ」
「・・・・・・・・そのため息はまた、むかつくわね」

 ベシャッと机に潰れた瀞は本に視線を移した。

「『お袋の味』って何だろー」
「いきなり・・・・じゃないか。それで悩んでるの?」
「うん。・・・・でも、私はあんまり覚えてないから・・・・」
「んー、あたしは煮物とか、そういう『和』っていうイメージがあるなぁ。もちろん、その家のオリジナル、って言うのが本当なんだろうけど」
「煮物かぁ・・・・」

 瀞はパラパラと本のページをめくり、煮物が載っているところへと飛ぶ。

「普通の野菜と・・・・魚の煮付けとかもかな?」

(確かにこう、『和』っていうのはレパートリーにないなぁ)

 食べてはいたが、手間がかかるために無意識に敬遠していたかもしれない。

「よし、煮物にしてみよう」

 パタンと本を閉じ、瀞は決心した。


 煮物。
 この料理にはいくつかの調理法があり、それぞれに名前がついている。
 長時間煮た料理、煮込み。
 少量の汁で食材に味が染み込むように似る料理、煮付け。
 煮付けよりも多めの汁を使用する料理、含め煮。
 濃い味付けで時間を掛けた料理、煮染め。
 薄味の汁でさっと煮て煮汁を冷ました状態で食材に染み込ませる料理、煮浸し。


「―――おでんと肉じゃがは普通すぎるなぁ」

 放課後、帰宅してからも瀞はダイニングのテーブルに突っ伏し、片頬で木の感触を楽しみつつ本を見ていた。

「んー、それに食堂でも食べられるし・・・・」

 一哉の昼食は購買か食堂である。
 瀞はお弁当なので、一緒に作ろうかと思うのだが、前に「俺を殺す気か?」と問われたので止めていた。

「ぶり大根・・・・は冬だよね。ていうか、そもそも富山の郷土料理みたいだし・・・・あ、でも、魚はいいなぁ」

 何というか、『和』という感じがする。

「鯖の味噌煮。・・・・うん、これでいいかな。ついでにこの風呂吹き大根も作ろう。・・・・普通に野菜の煮物も作っとこうかな?」

 何だか煮物づくしになったが、まあいいだろう。

「さって、買い物に行くかな。時間かかるから」

 ぐっと伸びをして、時間を確かめた。

「ん、ついでにタイムサービスでもチェックするかなぁ」

 立ち上がり、自分の部屋に戻る。
 とりあえず、部屋着から外出用の服に着替えようとして、ふっと姿見を見遣った。

「ぅわ、頬が赤くなってる・・・・」

 さすってみるが、さすがにそれで引くものではない。

「・・・・ま、すぐに引くよね」

 希望的観測を口にし、瀞は着替えるために服に手を掛けた。
 その後、部屋でのんびりしていた一哉を荷物持ちに召喚する。そして、瀞はいつもの商店街へと繰り出した。

「うげぇ・・・・」

 今夜の夕食の買い出しに出た主婦たちの群れに一哉は早速辟易したらしい。
 微妙に腰が引けていた。
 戦場での威圧とはまた違う圧迫感があるらしい。

「とりあえず、魚屋と八百屋かな」
「俺たち、あの中に突貫するのか?」
「? しないと買えないよ?」

 小首を傾げながら一哉を見上げると、彼は真の猛者を見るような目で見下ろしていた。そして、ポンッと瀞の肩に手を置く。

「頑張れ」
「え?」

 それだけ言い残すとすたこらさっさと逃げ出した。

「ちょっと!?」
「買い物終わった頃には戻るっ。荷物持ちは放棄しないから突貫だけは勘弁してくれっ」
「あ〜あ・・・・行っちゃった・・・・」

 一哉は人混みを縫いながら逃走する。
 追っ手を振り切るためのスキルが無駄に発揮された瞬間だった。

「―――カレシに逃げられたのかい?」
「え?」

 突然掛けられた声に首を傾げながら音源へと向き直る。
 壁に背を預け、腕を組んでいる姿はすごく男っぽいが、確かに女の人だった。
 ショートカットでさっぱりとした印象を細身のジーンズに包まれた細くて長い足が引き締めている。

「ごめんね、キミがかわいいからつい声を掛けてしまったよ」
「・・・・え、えっと・・・・」

 壁から離れてこちらに向かって歩いてくる直線上は、まるで花道のように人がいない。さらにはどこかからスポットライトが当てられているかのように装飾品などが光り輝いていた。

「ここにいるっていうことは・・・・統世学園の生徒? 1年生かな?」
「あ、はい。そうですけど・・・・」

 この音川町の同年代はほとんどが統世学園に入学していた。
 統世学園は公立校よりもほんの少し学費が高いだけだが、受けられる恩恵は計り知れない。また、元々音川町には公立高校はなく、隣市である神居市にまで出なければならないという交通上の事情があった。
 つまり、「ここにいる」とは「この時間に商店街にいる高校生」ということからの連装である。

「んー、見覚えがないってことは転入生? ボク、キミみたいな娘を勧誘したことがあるなら絶対に忘れないと思うから」
「た、確かに少し前に転入しましたけど・・・・」

 ショートカットの前髪を掻き上げながらにこっと笑う女性は自然な動きで瀞の手を取る。

「とりあえず、今から入部届書かないかな?」
「はぁ・・・・・・・・って、入部届!?」
「そう、演劇部の」
「え、演劇部・・・・」

 「ああ、やっぱり部活関連なんだ・・・・」と納得する瀞をじーっと観察する女性。

「ふむ、白くて綺麗な肌」

 さすさすと握っている手の感触を確かめる。

「腰まで届く艶やかな黒髪・・・・って、腰細いね」
「ひゃんっ」

 さらっと髪を掻き分ける動作のついでとばかりにさわっと腰を撫でる。

「むー、これは男装よりもストレートにヒロイン役の方が映えるね」

 すすっと頬を撫でられ、瀞は背筋がぞくりとした。

「わ、私、部活入る気はありませんから。とてもあんな闘争身が保ちませんっ」
「大丈夫。演劇部は軽音部しかライバルいないから」

 それもそれで、どうかと思う。

「ま、気が向いたら見学に来てよ」

 手を離し、笑顔を向けた女性は何かに気が付いたように「あ・・・・」と呟いた。

「ごめんごめん。ボクの名前を教えてなかったね」

 胸に手を当て、小さく笑いながら喧噪の中でも不思議と通る声で彼女は名乗る。

「ボクの名前は神坂栄理菜。演劇部二年で配役班に所属してる」
「1−Aの渡辺瀞です」
「ふふ、礼儀正しくてありがと。・・・・さて、待ち人もやってきたし、ボクは行くよ」

 先輩は視線を元いた場所に流した。
 釣られて視線を向けると、そこには右目に眼帯をした少女が所在なさげに立っている。

「付き合ってくれてありがとう。・・・・主婦の戦い、頑張って」

(え・・・・?)

 疑問を抱いたが、彼女はすでに人混みの中へと進んでいた。

(どうして・・・・?)

 どうしてこの喧噪の中、瀞と一哉の話の内容を正確に把握していたのだろう。

「・・・・・・・・ま、いっか」

 それよりも買い物だ。






「―――よし、できた・・・・ッ」

 苦心の末にできあがったものを前に瀞は思わず額に浮いた汗を拭った。
 煮物とは強大な敵だった。
 長時間の火加減がここまで命となる料理は未だかつて作ったことがない。

「できたのか?」

 瀞の言葉が聞こえたのか、リビングでテレビを見ていた一哉がやってきた。

「うん、な、なんとかできたよ」

 ニコッと笑って差し出した鍋の中身を一哉は興味深そうに覗き込む。
 そこには小芋や大根などの野菜が湯気を立ち上らせる煮汁の中に浸かっていた。
 大根などは煮汁をよく吸い込んで色を変えている。
 見た目こそ多少悪いが、味はしっかりしていると思う。

「ほー」

 対して表情を変えないが、口からは感心した言葉が出た。

「もう座って待ってて。すぐに他のも準備するから」
「おー」

 適当な相づちをついた一哉は己の席に座る前に食器棚から必要そうな食器を出してくれる。そして、瀞はその皿に料理を盛りつけていった。
 そんなさりげない振る舞いに思わず嬉しくなる。

「今日は純和風だな」
「うん。リクエストが『お袋の味』だったからね」

 食欲を誘う香りが皿の中から放たれ、自然とお腹が空いてきた。

「それじゃ、食べようか」
「ああ」
「いただきます」

 瀞は行儀よく、手を合わせる。そして、目を開けるとじっと一哉を凝視した。

「な、何だよ・・・・」
「いや、早く食べてくれないかなぁ、と」
「そんなに心配なのかよ」

 呆れたようにため息をつく。

「と、当然だよ。だって、初めて作ったんだよ?」
「見た目も匂いも大丈夫なんだから、そんなに心配するもんでもないだろうに」

 そう言って一哉は鯖の味噌煮を口の中に放り込んだ。


 その日のことを、熾条一哉は二度と忘れないと言う。
 一見普通の料理であり、普通に食べられる。だが、それは蓄積して内部から爆発する。
 この世には味覚というものを無効化するまさに筆舌に尽くしがたい食べ物が存在することを知った。
 瀞は決して料理を失敗したのではなく、料理というものを超越したものを作り上げたのだと、その日の深夜に目覚めた彼は言った。


「―――い、一哉、リベンジ・・・・」
「・・・・・・・・・・・・本気か?」

 あれから3日が経ち、再び食卓は煮物に侵食された。

「今度は大丈夫。・・・・味見したから」
「・・・・前はしなかったのか?」
「いや、したんだけどね? 並べてからと全然味が違った・・・・」

 「どうしてだろう?」と首を傾げる瀞が死神に見える。
 エプロン姿でキッチンに立つ姿は統世学園の男どもが見たくて堪らない姿ではあるが、一哉にとっては微妙に恐怖が混じっていた。

「あれ? 前と違うのもあるな」
「うん。完全に同じだと飽きるでしょ?」

(いや、そもそも前のものの記憶が曖昧なんだが・・・・)

 だが、作ってくれた手前、それを言うのは気が引ける。

「それでは・・・・」

 ごくりと皿に盛りつけられた鯖の味噌煮に箸をつけた。
 ほとんど力を入れることなく、身を取り出せた柔らかさに感心しつつゆっくりと口に運ぶ。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 じっと瀞が身を乗り出してこちらを凝視していた。
 一哉はその目をしっかり見返し、判定を下す。

「・・・・うまい」
「やったーっ」

 バンザーイ、と箸を持ったまま両手を挙げる瀞。
 その満面の笑みに気遣いはなく、本当に明るくなったなと思った。
 そう思い、自然な流れで新しい料理へと手を伸ばし―――

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・あれ? 一哉? おーい、一哉くん?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「ねえ、ちょっと・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・一哉ぁっ!?」
「・・・・・・・・・・・・ハッ」

 気が付けば、瀞が涙目で一哉の体を揺すっていた。

「よ、よかったぁ・・・・」

 そして、そのままへなへなと崩れ落ち、ペタンとフローリングに座り込む。

「えーっと?」

 彷徨わせた視線が今さっき食べたものに向いた。

「これは?」

 鶏肉とゴボウが入った皿を指差す。

「筑前煮。北九州の郷土料理だよ。・・・・と言っても骨付きじゃないからがめ煮じゃないけど」
「あむ・・・・ぐぉっ」
「一哉!?」

 それを口に入れると原因不明の言い難い事態に放り込まれるが、すぐに風呂吹き大根を口に放り込めば鎮火した。

「はぁ・・・・はぁ・・・・」
「だ、大丈夫?」
「瀞・・・・」
「う、うん・・・・」
「新しいものに挑戦する時は・・・・せめてひとつくらいは安全に食べられるものを置け。」

 慌てて背中をさすってくる瀞の顔を見て一哉は宣言する。

「それがあれば、俺は戦えるっ」

 そう言って箸を伸ばし、一哉は戦闘を開始した。
 この日から食卓に新メニューが並ぶ時、同時に瀞の得意料理=オアシスが並ぶようになったという。










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