第九章「赤鬼、そして鎮魂歌」/6
「―――急がないと」 夏の蒸し暑い中、少女は長い髪をなびかせながら呟いた。 彼女の身は自動車並みの速度で移動していたが、自動車に乗っているわけではない。そして、もちろん自分の足と言うわけでもない。 彼女が乗っているのは、目撃されれば人が逃げ惑う動物だ。 だが、その動物を象っているだけで、本当のそれではない。 「ちょっと遅れるかな」 左手首に巻いた腕時計が告げる時刻は、思っていたよりも進んでいた。 (ここの入り口が分かりにくいのがいけないんだよ) 少女はぼやきながら"下水管整備用側道"から"下水"へと身を投げる。しかし、彼女の肌や衣服に下水が触れることはなかった。 (あんまり気分がいいものじゃないけど・・・・ッ) 少女の乗り物はその四足で水路底を蹴って加速する。 その速度は陸上の比ではなかった。 あっという間に数kmを移動した少女は、不可思議な障壁――人払いを含む中位結界を突破する。 「ここ、かな」 事前に渡された地図から顔を上げ、上のマンホール蓋を見上げた。そして、そのまま足下に水を発生させ、その水位を上げることで蓋まで達する。 「よい、しょっと」 言われた通りの操作で蓋を開け、その体を大地へと登らせた。 「ふぅ・・・・」 下水道を通るために展開した自分の体の周りの障壁を解除する。 能力的に負担になるわけではないが、体の表面を撫でる夏の風に安堵の息をついた。 「あっつ~」 その後、熱帯夜の気温と湿度にげんなりする。 そんな少女を包囲するように霊体が立ち―――消えた。 「あ・・・・」 思わず構えた少女の耳朶を打つ、ひとつの歌声。 「鎮魂歌、か・・・・」 少女は辺りを見回せる場所まで歩き、それを見た。 点滅する巨大な鬼と―――黒い土の奔流に押し流された知人を。 心優&直政scene (―――政くんと同じ戦場に立っていたんですね) 急速に冷たくなる体を自覚しつつ、心優は感慨深げに過去を思い出した。 それは中学校の折、おそらくは直政の初陣だ。 「―――頑張れ」 成長した少女は、同じく成長した少年の初陣をひそかに見送った。 妹と共に緊張に表情を強張らせている。 この地に現れる強い妖魔は結城宗家が退治するため、弱小の穂村家に回ってきた仕事の危険性は低いはずだ。 「がんばれ」 それでも心配だ。 彼のまっすぐな性格はきっと戦い方にも表れるだろう。 (でも、亜璃斗は政くんを戦わせまいと張り切るのでしょう) 少女――心優は2時間後にふたりが汚れて帰ってくるまでずっと、穂村邸が見える窓から動かなかった。 汚れて帰ってきたということは、やや苦戦したのだろう。 結城の分家すら向かわせる価値なしと判断した相手に、だ。 そんな彼が、見事に成長して強敵を破って自分の下へ来てくれた。 「えへへ」 その事実に心優はふわりとほほ笑んだ。 その口元に血がついているが、心優は気にしない。 涙で滲む視界の中に愛しい人が映っている。 五体満足だ。 「眠らせ、て・・・・遠ざけようとしたけど・・・・」 直政に抱き起こされた心優は、ゆっくりと腕を動かして彼の頬を撫でた。 「最期に、政くんの顔が見られて・・・・嬉しい、です」 彼の頬は温かい。 いや、違う。 心優の方が冷たいのだ。 「死」に向かい、末端から徐々に冷えているのだ。 「鬼は・・・・?」 「・・・・零体は消えたよ。鬼も・・・・消えそうだ」 こちらから視線を動かさずに答える。 心優の質問への答えは、彼が従える<土>が見たものなのだろう。 (ふふ、さすがは御霊送り) 御霊送り。 凛藤宗家が誇る最高の鎮魂歌だ。 かつて太平洋戦争の数万に及ぶ戦死者を亡者化させなかった功績を持つ。 千年を超える時を経ても漂う亡霊たちを相手にするには、このくらいの術式でなければダメだった。 サイパン島で実施した鎮魂よりも大がかりで、近年における最大規模の鎮魂だっただろう。 (会心の一撃と言うやつです) 確実に命を落とす。 そう分かっていても、心優にはやるしかなかった。 「ふふふ。満足です」 「どこがだよ!?」 少し苛立っている声。 苛立ちは心優に向けられているように見えるが、優しい彼はそんなことしない。 苛立っているのは彼自身だ。 だから、心優は彼の頬をくすぐるように指先を動かし、満面の笑みで告げた。 「政くんが・・・・大切にしている、学園生活を守りましたよ」 「な・・・・ッ」 直政が裏に関わる人間として、表を大切に思っていたことは知っている。 その最たる物が学園生活だ。 イメージでは勉学をあまり気にしないタイプに思われがちだが、予習復習を欠かさない真面目さを持っている。 それも「学園生活」を大切にしている証拠である。 「だから、守りたかった、です。・・・・政くんに関わる・・・・全て、を」 その額には汗で前髪が張り付き、先程の術式の威力を物語っていた。 それは間違いなく、心優がこれからの未来を犠牲にして放った一撃である。 「あの・・・・七不思議の夜、政くんが必死になって、戦っているのを見ました」 「学園を守りたかったんですよね?」と微笑む心優は、その次の日も覚えている。 生徒会棟倒壊に伴い、学園が封鎖されたことに落ち込んでいた。 日常を守れなかったことを後悔していた。 (だから、決めたんです) あの公園で熾条一哉に「死んでくれ」と言われた時、それを受け入れた。 心優が受け継ぐ凛藤の術式を使えば、現代に蘇る鬼を還すことができる。 もし断れば二度の鴫島事変を上回る大戦となるだろう。 そんなものが町中で起きればどうなるか。 その答えのひとつは昨年の夏休みに起きた「地下鉄音川駅事件」だ。 あの時、直政は音川町を離れていた。そして、帰ってきてから友人が亡くなったことを知った。 守れなかった。 その事実に打ちのめされた直政をもう見たくない。 鬼が復活して戦いになれば、直政の性格上最前線に出て戦うだろう。そして、無辜の民を守るために無理をして、その結果として討ち死にするに違いない。 これは最悪のシナリオだ。 直政が最前線で戦っても犠牲は出るだろうし、その犠牲に直政が含まれている。 それを防ぐには戦い自体をなくすしかない。 その犠牲に心優がなれば、きっと直政は落ち込むだろう。 だがしかし、"生きていなければ落ち込むこともできない"。 (最愛の家族を失って塞ぎ込んでいたわたしの前に政くんが現れたように・・・・) 「きっと、誰かが・・・・現れます、よ」 直政の暖かな胸に頬を寄せ、その心音を聞いた。 やや早い鼓動に、夏の空気に混じる汗のにおい。 直政が生きている証拠だ。 彼の命を未来へ繋いだ。 「これで、もう、思い残すことは―――」 「―――いや、いっぱいあるだろ!」 直政は指で心優の血を拭い、閉じかけた瞳を覗き込んだ。 しっかりと視線を合わせ、心優の意識を引き戻す。 「やりたいことがあるから統世学園に入ったんだろ!」 心優は元々、町外の名門お嬢様学校に通っていた。 そこは良家の子女を育成する旧態依然としたものではなく、これからの世を動かすリーダーを育成する学園である。 モットーは統世学園と同じだが、このお嬢様学校は生まれながらにしてリーダーになることが決まっている者たちで構成されている。 いくつかの事業を受け持っている心優が通うにはふさわしい学園だった。 その学校の高等部を蹴ってまで統世学園に入ったのだ。 「はい。・・・・政くんと一緒に、学園生活を送りたかった、です」 「・・・・ッ!?」 いつも笑顔で恥ずかしげもなくぐいぐい来るというのに、心優は頬を染めてはにかむ。 その儚げな笑みに胸を高鳴らせ、直政は体温を失っていく心優を抱き寄せた。 鼻先がこすれるような距離で言い聞かせるようにその虚ろになりつつある瞳に訴えかける。 「だったらなんでこんなことした!?」 分かっている。 一哉からも聞いていた。 でも言わざるを得ない。 「俺を救うって、救えてねえよ!」 「・・・・え?」 「俺がお前を喪って笑ってられると思うのかよ!?」 情けない言葉だが、事実だ。 「なんだよ、誰かって!? それがお前の代わりとでもいうのか!?」 焦点が合わなくなっている心優の瞳が少し開いた。 驚いている、という事実に直政は激昂する。 「お前はそれでいいのかよ!?」 心優はいつもこうだ。 天真爛漫なように見えて、いつも誰かを気遣っている。そして、誰かのためには心優の益にならないことを平気でする。 それが端から見れば暴走に見え、助けられた本人たちはほとんど気がつかない。 いや、気付かせないように行動する。 今回だって直政に気付かせないように動いていた。 知らない内にいなくなっていた。 それが一番だと思っている。 誰だって別れの瞬間は悲しいものだ。 だが、それは逝くもののエゴ。 直政は実体験からそう思っていた。 音川地下鉄事件で友人を失った。 自分がいればなんとかできたかもしれない。 それが後悔になっていた。 「お前は残された側だろ!? 何で残そうと思うんだよ!」 「・・・・・・・・・・・・・・・・」 凛藤宗家のたったひとりの生き残りとなった心優は、毎日塞ぎ込んでいた。 自慢ではないが、毎日ちょっかいをかける直政の存在がなければずっと家に引きこもっていただろう。 心優は直政から逃げるために外へ飛び出し、外の世界を知ったのだ。 「逝く側に、なって・・・・初めて分かることもあります、よ?」 「それも知ってる!」 上田にて、逝く人を見た。 本人はすごく満足そうだった。 「でも、それはやっぱり残される側のことを考えてない!」 冷たくなっている手を、まるで熱を送り込むように強く握る。 「それにあんな鬼に俺が負けるか!」 歴史上に逸話としてでも残すことが忌避された存在。 だが、歴史上、どうにかできた存在なのだ。 そんな奴に、直政が、御門宗主が負けるわけがない。 勝手に力量を測られ、勝手に諦められたことが悔しくてならない。 その結果に選んだ選択は、直政にとって最悪だった。 「事実、俺はあの"東洋の慧眼"を退けてきたんだぞ!」 一哉が匙を投げたからと言って、一哉よりも強い自分が負けるとは限らない。 「そう、だね」 彼女は眩しそうに直政を見上げた。 「政くんは、いつも・・・・わたしの予想の上を、行きます・・・・」 (それが分かっているならどうしてそんなことした!?) と、叫びそうになり、直政は己の思考の勝手さに気付いた。 直政が一哉に勝つ、いや、鬼に勝って生き残るという保証はない。 というか、これは希望的観測と言っていい。 鬼が活躍した当時の退魔力は、おそらく現代とは比べ物にならない。 それでも封じるしかできなかった鬼を、直政単身でどうにかできるとは限らないのだ。 そんな絶望的とも言える希望にすがるほど、経営者である心優は甘くはなかった。 それでも、 (それでも・・・・) 「自分の命は賭けてほしくなかった・・・・」 直政は冷たくなっていく彼女の手を握る。 目尻に涙を浮かべた直政を見て、心優は初めて動揺した。 「・・・・だったら、どう・・・・するんで、す?」 困ったように眉をひそめる心優。 そう、もう終わってしまったのだ。 心優は決死の覚悟で術式を発動し、その身は呪いに蝕まれている。 ここで直政がいくら言葉を重ねようと、心優が待つ運命は変わらない。 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 改めて直政は抱き寄せていた心優をわずかに離し、その様子を見下ろした。 徐々に体温を失い、呼吸も細くなっていく幼馴染みがいる。 (何もできなかった俺に何ができる・・・・) せめて満足に逝かせてやることではないのだろうか。 幼い頃に心優を救ったという自覚はあるが、同時に直政も救われていた。 御門壊滅で落ち込んでいた直政を元気づけたのは間違いなく心優だ。 心優がいたからこそ、ここまで来られた。 唯宮家が大きな家だからこそ、いろいろ気苦労があるだろうから、直政は自然体で接することにした。そして、心優の日常を守るために修行に耐えた。 旧戦争に乗り気になったのも、地下鉄音川事件のように裏が音川を襲ったからである。 "心優を守る" その気持ちがあったからこそ、直政は今ここに立っている。 だから、だから、心優に言うことは、ただひとつ。 「―――心優」 「?」 浅い呼吸を繰り返していた心優の意識が浮上し、こちらを認識した。 もはや言葉はない。 「ありがとう」 感謝。 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・それと、ごめん」 謝罪。 「・・・・・・・・・・・・・・・・」 直政の言葉を聞き、心優は苦笑した。 最後の最後で謝った直政を「仕方がないなぁ」と笑ったのだ。 「・・・・ッ」 その笑みにドキリとする。 いつも無邪気で幼く見られがちな心優だが、落ち着いていれば大人な雰囲気を放つのだった。 だが、一呼吸後には、何かの覚悟を決めたようにそれまでの雰囲気が揺らぐ。 やや血行が戻った頬とやや光が戻った瞳。 それに吸い込まれそうになった時、心優の口が動いた。 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 しかし、紡ぎ出される声はひどく小さい。 「ん?」 自然と直政は体を折り曲げ、心優の口に耳を持っていく。 かすれた声音で、「言おうか言わないか迷っていたんですけど」と聞こえた。 「何だよ。この際だから言えよ」 「この際」という自分自身の言葉に涙腺が刺激される。 鼻の奥が痛み、目も潤み出した。 その時が近づいている、と否が応でも感じ取れる。 「ん?」 頬に手を当てられ、口元に当てていた耳が離された。 「それだと聞こえ―――んっ」 唇をかすめた柔らかい感触。 そして、視界の中心で頬を赤らめた心優の唇が動く。 『―――ずっと、好きでした』 冷たく紫色の唇がそっと閉じられ、それと共に心優の瞼も閉じた。 「み・・・・ッ」 ずっと心優は好意を全開にしてきた。 照れくささからどんなにあしらっても変わらぬ好意を向けてきた。 それに"安心"し、今までの関係を続けてきたのだが。 「・・・・ッ」 心優の体から黒い靄が沸き出す。そして、その靄は鎌を振り上げるようにして、尖った先端を心優の顔向けて振りかぶった。 (これが呪い・・・・ッ) それが今まさに心優の命を刈り取ろうとする。 「―――え?」 思わずその鋒を手で受け止めようとした直政をあざ笑うかのように黒い靄は霧散した。そして、その代わりに白い刀身が心優の胸を貫いていた。 |