戦 闘 記 録

都濃合戦
佐敷川の戦い
人吉城攻防戦肥後電撃戦天草側撃戦佐敷川の戦い

都濃合戦
戦争 都濃合戦(龍鷹侯国 vs 神前氏)
年月日 鵬雲二年八月十八日~二一日
場所 日向国都濃地域(現宮崎県児湯郡)
結果 引き分け
指揮官
鷹郷光明(①)
鳴海盛武(②)
香川邦知(③)討死
小室真茂(④)寝返り
鷹郷忠流(⑤)
神前持豊(⑥)
神前兼豊(⑦)
兵数
二九〇〇 二五〇〇
開戦経緯 内乱において、藤丸方は中日向の豪族と不可侵条約を結んでいた。その条件は北日向より攻めてくる神前氏を撃破し、中日向に平穏を取り戻すことであった。このため、内乱終結後まもなく、龍鷹軍団は新高鍋城主・絢瀬晴政を実質総大将に、鷹郷光明を名目上の総大将として都濃地方へと派遣した。
戦闘経緯 名貫川渡河において、被害を受けるも争奪戦の中心地である都濃神社に本陣を置き、龍鷹軍団は戦力を分散して神前氏の拠点を各個撃破に出た。そんな中、船を使って近くに上陸した神前主力軍の急襲を受ける。神前兼豊率いる軍勢を鳴海盛武が支え、光明は撤退。途中、乱戦にて香川邦知が討死し、小室真茂が裏切って退路を断つ。絶体絶命に陥るも、鷹郷忠流が関船と共に来援し、不利を悟った神前勢は撤退した。
戦争への影響 中日向衆は壊滅状態となり、都濃地域は神前氏が支配する。しかし、激戦の結果、神前勢の鉄砲隊は大打撃を受けており、これ以上の南進は不可能となった。また、香川氏は当主を失い、若い高知が当主に着き、龍鷹侯国に従属。小室氏も撤退戦で打撃を受け、神前氏に従属する形となった。


人吉攻防戦
戦争 佐敷川の戦い(龍鷹侯国 vs 聖炎国)
年月日 鵬雲二年十二月二日~
場所 肥後国人吉(現熊本県人吉市)
結果 聖炎国の勝ち
指揮官
佐久頼政
佐久仲綱
火雲親晴
三浦雅俊
野村秀時
兵数
三〇〇〇 三五〇〇
開戦経緯 内乱で失った人吉城を奪還するため、元城主・佐久頼政を総大将とする軍勢が人吉城へと駒を進めた。これに応じて、聖炎軍団は火雲親晴勢二〇〇〇が増援に出陣する。
戦闘経緯 久七峠にて敵を撃破し、球磨衆を取り込んだ龍鷹軍団だったが、人吉城は堅固で攻め落とせそうになかった。さらに火雲親晴が球磨川北岸に到着し、戦線は膠着状態になると思われた。だがしかし、親晴の強引な渡河作戦に虚を突かれた佐久勢は人吉城の包囲を解いて、後退。長期戦の構えを採った。
戦争への影響 人吉城戦線の長期化により、勝敗は両軍の増援を待つほかになくなる。また、火雲親晴は部将としての優秀さを見せることができた。


肥後電撃戦
戦争 佐敷川の戦い(龍鷹侯国 vs 聖炎国)
年月日 鵬雲二年十二月四日~八日
場所 肥後国水俣-佐敷(現熊本県水俣市・芦北郡)
結果 龍鷹侯国の勝利
指揮官
鷹郷忠流
鷹郷従流
武藤晴教
名島景綱・重綱
立石元秀
太田貴久
兵数
一万四〇〇〇 四〇〇〇
開戦経緯 内乱の後処理を終えた龍鷹軍団は大戦略の目的を人吉城の奪還とし、人吉城へ兵を進めた。これに対し、聖炎軍団も増援を出し、人吉戦線は膠着状態となる。そんな中、龍鷹軍団が水俣城を強襲した。
戦闘経緯 奇襲によって水俣城を籠城に追い込んだ龍鷹軍団は津奈木城を攻略、続いて佐敷城へと進んだ。主力とも言えない兵力で急進した龍鷹軍団に舐められたと判断した太田貴久が奇襲をかけて一矢報いる。しかし、鷹郷従流率いる龍鷹軍団主力が上陸。一気に兵力を増した龍鷹軍団は佐敷城を籠城に持ち込んだ。そこに名島重綱が北薩摩衆を出し抜き、増援を送り込む。さらに名島景綱が佐敷川北岸に到着し、龍鷹軍団の進軍を止めた。
戦争への影響 人吉城攻防戦という局地戦を肥後南部全体にまで押し上げた作戦。龍鷹軍団は敵主力を撃破し、包囲している三城を攻略して肥後南部を制圧する。対する聖炎軍団は敵主力を撃破し、包囲されている各城を救い出す。このため、戦略上、両主力の決戦は不可避となった。


天草側撃戦
戦争 佐敷川の戦い(龍鷹侯国 vs 聖炎国)
年月日 鵬雲二年十二月七日~九日
場所 肥後国天草諸島(現熊本県天草市)
結果 龍鷹侯国の勝利
指揮官
鹿屋利孝
東郷秀家
燬羅尊純
国木田政恒(討死)
兵数
四六〇〇 一二〇〇
開戦経緯 龍鷹軍団は人吉戦線を囮に水俣-佐敷戦線を構築する。さらにその側撃として、”翼将”・鹿屋利孝率いる大隅勢二〇〇〇が天草諸島を強襲した。
戦闘経緯 牛深港を艦砲射撃し、久玉城から敵兵を釣り出した鹿屋勢は短時間で久玉城を攻略、その後、艦船にて本渡城に乗り付け、力攻めをするも、攻めあぐねた。両軍はその夜に疲れ果てて爆睡したが、北方より上陸した燬峰軍団二〇〇〇が夜討ちをかけて攻略する。
戦争への影響 天草諸島が陥落したことにより、宇土半島への道が開けた。主力軍が佐敷に向かっている今、本城である隈本城、宇土城は手薄となっており、聖炎軍団は急転する情勢に右往左往することなる。また、燬峰軍団と龍鷹軍団の同盟が明確となり、その影響は西海道全体に波及した。


佐敷川の戦い
戦争 佐敷川の戦い(龍鷹侯国 vs 聖炎国)
年月日 鵬雲二年十二月十八日
場所 肥後国佐敷川(現熊本県葦北郡芦北町)
結果 龍鷹侯国の勝利
指揮官
鷹郷忠流
鷹郷従流
鳴海直武
村林信茂
火雲親家
国木田政次
名島景綱
太田貴久(戦死)
兵数
一万三〇〇〇 八〇〇〇
開戦経緯 龍鷹軍団主力軍が佐敷城を囲んだところ、聖炎軍団主力軍が佐敷川北岸に到着。電撃作戦が阻止された。「決戦回避」を掲げる忠流は、交渉によって両軍を退かせるべく火雲親家と面会する。そして、和議を約した時、鈴の音によって足軽衆が暴走、両軍が激突した。
戦闘経緯 武者衆の言うことを聞かずに、勝手に進軍を始めた足軽衆を統率することを、従流は早々に諦めた。統率できる武者衆を集結させ、足軽に囲まれて混乱する敵武者衆にけしかけることで戦況を打破しようと考え、実際にこれを実行する。また、佐敷城でも攻防戦が始まっており、城主・太田貴久は城の防御機能を生かせぬまま、乱入した旗本衆によって討ち取られた。
異常事態により、両軍首脳は戦場を離脱、日が落ちて足軽衆が正気に戻ると、これ以上の戦いに益はないと判断した現場指揮官によって、停戦された。
戦争への影響 両軍に甚大な被害を与えたが、戦場を最後まで保持し、佐敷城を確保した龍鷹侯国の勝利となる。しかし、龍鷹侯国は落とした佐敷城、津奈木城の領国経営と水俣城包囲という、長い半戦時状態を余儀なくされた。
対する聖炎国は天草諸島と領国南部を失い、人吉城が孤立する。さらに立て続けにショックを受けた火雲親家が病に倒れる。ここに火雲親晴派と火雲珠希派の萌芽が見え、外征どころではなくなった。

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