開戦「約束」
「―――うーん、いい風・・・・」 年の頃六、七才と思しき少年は草むらに寝転びながら深呼吸した。 草の臭いに混じる硫黄の臭いはこの地独特なものだ。 目を開けば南の方に錦江湾が広がっているだろう。そして、その海面にひょっこりと顔を出した桜島が今日も噴煙を噴き上げているに違いない。 それがここ、大八洲筑紫島最南端、薩摩国の日常風景だった。 「―――あ、わかさま、また抜け出してる」 声と共にパタパタと走ってくる足音がする。 「んん?」 顔に影が差したのを感じ、少年は目を開けた。 「いいの? こんなにひんぱんに抜け出して」 「い・い・の。俺は若様だから」 投げやりに答え、体を起こす。 傍に座っていたのは数年前に知り合い、少年がここに来る度に姿を見せる同年代の少女だった。 「それよりも『若様』『若様』言うなよ。バレるだろ?」 仮にも脱走中の身である。 「だって名前知らないもん」 「言うわけないだろ。ってか、名前で呼ぶな」 「じゃあ『わかさま』でいいでしょ?」 「うぐ・・・・」 思わず少年が口籠もった時に、少女が浮かべた輝かんばかりの笑顔は少年を言い負かしたことへの喜びだった。 「ねえ、わかさま」 「ん?」 少女は立ち上がり、桜島を、いや、そのもっと向こうを見遣る。 「―――"この外はどんなのかな?"」 その時の彼女の顔は分からなかった。だが、どこか悲しみを湛えていたように思え、少年は慌てて立ち上がる。 父が言っていたのだ。 『父さんたちの仕事はこの国の人がひとりでもつまらないことで泣くようなことがないようにすることだ。それを覚えておきなさい』 「そんなの見てみれば分かるよ」 「・・・・でも」 少女はやはり哀しそうな顔で振り向いた。 「大丈夫、俺に任せとけ。きっと連れてってやるから」 「・・・・え?」 「何てったって、俺は『若様』だ。大抵のことはできる、うん」 「わぁっ、じゃあお願いねっ」 ぎゅっと手を握られる。 温かくて、柔らかい手。 恥ずかしいが、ここで振り払うわけにはいかない。 ここ一番で逃げ出すのは武士ではないからだ。 だから、自分の頬が赤く染まるのを意識しつつも少年は少女の手を握り返した。 彼女自身も頬を染めながら、にっこりと笑みを向けてくる。そして、少年の手を胸の前で両手を使って包み込んだ。 「約束だよ、わかさま」 その時浮かべた嬉しそうで、安心した笑顔に少年は昂揚し、大きく頷く。 その瞬間、パチリとふたりの手の中に何かが走ったような気がした。 「?」 衝撃に首を傾げるが、少女は説明せずにニコニコしながら同じように首を傾げる。 「今の―――」 「―――若ぁっ」 問い掛けようとした時、遠くから聞き覚えのある声が聞こえた。 さらに馬で来ているのであろう、馬蹄の音までする。 「あ、呼んでるよ」 「あ、ああ」 ぱっと離された手を見ながら気もそぞろに答えた。 「うーん、まだ無理だと思うから、もうちょっと先だね」 「そ、そうだな」 さすがに元服もしていない。 まだまだ無理はできない。 (と、いうか胸が苦しいぞ・・・・) 胸の前の生地を握り締め、膝を付いた。 「約束、わすれないでね」 少女の言葉は少年には届かず、少年の意識は果てなき闇へと落ちていく。 「若? ・・・・若ッ、しっかりっ」 少年が次に目覚めたのは城の自室のことだった。 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 ―――ミーンミンミンミンミー・・・・ そんなことがあった夏からすでに八年。 あの時の少年は朦朧とする意識の中、その鳴き声に耳を傾けていた。 ミンミンゼミなどの鳴き声が周囲を支配する夏。 ようやく終わった内乱に民は喜び、新政府は各地に残った内乱の爪痕を必死に修復している。 「はぁ・・・・はぁ・・・・はぁ・・・・」 そんな内乱の主役であった少年は床に伏せっていた。 戦いの余波、というか中心でもあったこの城は現在、数千という人夫を動員した改修工事中だ。 木槌の音や人の声がこの本丸にも聞こえてくる。 「―――もし」 「・・・・あ?」 自分にかけられた声に反応し、少年は瞳を開けた。 ぼんやりとした視界の中、誰かが自分を覗き込んでいる。 「聞こえますか?」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ああ、うん」 声の主は内乱で知り合った少女のようだ。しかし、何故か既視感があった。 幼き日に出会い、そして、過ごした少女の面影。 それがこの少女に宿っているように思われる。 (まさかな) 鼻で笑いたい。 幼き日の少女は所詮、町もしくは村娘。だが、この少女はこの国家にとってなくてはならぬ存在なのだから。 「聞こえているなら幸いです」 少女は少年の心中など察することなく、淡々と言葉を紡ぐ。 「あなたは後八年で死ぬでしょう」 ―――例えそれが少年に対する死の予言であろうとも。 時は戦乱。 血で血を洗う戦国時代。 各地に割拠した戦国大名たちが鎬を削る中、ゆっくりとしかし確実に時代は動き出していた。 |