戦 闘 記 録

豊後侵攻戦(緒戦戦線整理
戸次川の戦い(前半後半
大分平野の戦い

豊後侵攻戦~緒戦~
戦争 豊後侵攻戦(龍鷹vs銀杏)
年月日 鵬雲五年十月
場所 豊後国南部
(現大分県南部)
結果
指揮官
鷹郷忠流
鹿屋利孝
絢瀬晴政
佐久仲綱
村林信茂
冬峯千若丸
冬峯勝則
大塩佳秋
田中勝幸
兵数
二万 一万
開戦経緯 高城川の戦いで大敗を喫した銀杏軍団は再建の半ばであったが、多くの将兵を失ったことで全く進んでいなかった。また、同盟国である虎熊宗国が謎の沈黙を続ける中、西海道で最も脆弱な国家だった。
これを好機と見た龍鷹侯国が侵攻を開始したことで、戦いが始まった。
戦闘経緯 龍鷹軍団は日向口を主力とし、別働隊を肥後口から侵攻させる。肥後口は聖炎軍団の増援と共に岡城を囲み、日向口からは鹿屋勢が鉱山地帯を制圧して豊後松尾城を攻略、主力は佐伯城を囲んだ。
一方、銀杏軍団は主力を府内城に集結させたまま、なかなか動きを見せなかった。
戦争への影響 満を持した龍鷹軍団の侵攻に対し、銀杏軍団は籠城策しか採れなかった。だが、この選択は野戦決戦を目指す龍鷹軍団の戦略を空振りさせる。結果、鷹郷忠流は作戦の変更を余儀なくされた。


豊後侵攻戦~戦線整理~
戦争 豊後侵攻戦(龍鷹vs銀杏)
年月日 鵬雲五年十一月
場所 豊後国南部
(現大分県南部)
結果
指揮官
鷹郷忠流
鹿屋利孝
絢瀬晴政
佐久仲綱
村林信茂
冬峯千若丸
冬峯勝則
大塩佳秋
田中勝幸(討死)
兵数
二万 一万
開戦経緯 豊後に侵攻した龍鷹軍団は国境を突破し、銀杏国の主要拠点を囲んだ。目的は救援に出てくる銀杏軍団主力を撃破するためである。この戦術目的を達成し、銀杏国の降伏という目的を果たそうとしていた。しかし、銀杏軍団主力は府内城から動かなかった。
これを受け、鷹郷忠流は戦略の変更を決断。戦線を整理し、再び銀杏軍団主力を誘引するために動き出した。
戦闘経緯 龍鷹軍団が海軍を使って臼杵城を攻略し、佐久・村林勢が岡城周辺の城を攻める。主力軍は内陸へ進み、大野川沿いを進み、大分平野の入り口を扼する鶴賀城を囲んだ。この周辺は戸次川とも呼ばれ、文字通り、大分平野への玄関口であり、銀杏軍団の本拠地に対して、切っ先を突きつけた形となった。
戦争への影響 短期決戦を望んだ龍鷹軍団に対し、持久戦を選んだ銀杏軍団。しかし、主要拠点である臼杵城が瞬く間に陥落し、一気に大分平野へ侵攻する構えを見せた龍鷹軍団。これに対し、銀杏軍団は主力決戦を決意する。
舞台は鶴賀城周辺。彼我の兵力差は約二倍という龍鷹軍団有利の状況だが、銀杏軍団は地の利を活かして挑戦する。


戸次川の戦い~前半~
戦争 豊後侵攻戦(龍鷹vs銀杏)
年月日 鵬雲五年一二月八日
場所 豊後国鶴賀城周辺
(現大分県大分市上戸次)
結果
指揮官
鷹郷忠流
鳴海直武
絢瀬晴政
神前豊政
冬峯勝則・勝信
梅津正俊
兵数
九五〇〇 五〇〇〇
開戦経緯 龍鷹軍団は銀杏軍団との決戦を求めて大分平野の入口である鶴賀城を包囲し、攻撃を開始。ここが陥落すると大分平野侵攻の足がかりを得ることができ、本拠地防衛のために銀杏軍団が出てこざるを得ないと予想していた。予想通り、戸次川西岸の鏡城には銀杏軍団の部隊が展開しており、龍鷹軍団は敵襲に備える。しかし、合戦の火蓋は思わぬ方向から切られることとなった。
戦闘経緯 銀杏軍団は龍鷹軍団の予想した地点とは別の地点で戸次川を渡河。日向衆の背後から襲いかかり、日向衆を率いる絢瀬晴政は多大な犠牲を出しつつ押しとどめた。しかし、空いた隙間を突破した冬峯勝信は鶴賀城に入城し、そのまま城内を走り抜ける。そして、城門から抜けた先には護衛が少なくなった忠流本陣があり、ここに向けて突撃。最初から総攻撃に近い攻勢のため、城南方に展開していた長井・武藤勢三五〇〇は遊兵と化した。
戦争への影響 豊後南部を席巻した龍鷹軍団が態勢を調えて大分平野表まで繰り出したことで、虎熊軍団の援軍を待っていた銀杏軍団主力は決戦を求めて出撃。乾坤一擲の一戦に臨んだ。


戸次川の戦い~後半~
戦争 豊後侵攻戦(龍鷹vs銀杏)
年月日 鵬雲五年一二月八日
場所 豊後国鶴賀城周辺
(現大分県大分市上戸次)
結果 龍鷹軍団の勝利
指揮官
鷹郷忠流
鳴海直武
絢瀬晴政
神前豊政
長井衛勝
武藤統教
冬峯勝則・勝信
梅津正俊(討死)
兵数
一万三〇〇〇 五〇〇〇
開戦経緯 銀杏軍団は最初から総攻撃を仕掛けることで、龍鷹軍団の防衛戦を突破。直接、龍鷹軍団大将・鷹郷忠流を討ち取ることを目標とした。この目標を達成することで、祖国防衛という目的を果たそうとしたのである。戦術的には最精鋭を忠流本陣に突入させ、その護衛と激戦となった。
戦闘経緯 冬峯勝信の前に立ちはだかった長井忠勝と加納忠猛に忠流が守られている間、鶴賀城南方に展開していた長井・武藤勢は戸次川を下り、鏡城を攻略。そのまま戸次川西岸を突き進み、銀杏軍団の退路を断った。
一転して全滅の危機に瀕したと判断した勝信は潔く撤退して本隊と合流。銀杏軍団は戸次川に沿って東方へ撤退したが、その殿を務めた梅津正俊は討死した。
戦争への影響 半数以下にも関わらず、銀杏軍団は龍鷹軍団本隊を今一歩という所まで追い詰めたが、最後は兵力差――予備戦力の差で敗北。多数の兵を失って撤退し、その主力の敗北を見た鶴賀城は陥落。一方、龍鷹軍団も予想外の損害を受けたが、余勢をかって大分平野に侵攻した龍鷹軍団主力軍は一気呵成に府内城を目指した。


大分平野の戦い
戦争 豊後侵攻戦(龍鷹vs銀杏)
年月日 鵬雲五年一二月八~一二日
場所 豊後国大分平野周辺
(現大分県大分市)
結果 龍鷹軍団の勝利
指揮官
鷹郷忠流
鹿屋利孝
冬峯律
兵数
一万三〇〇〇 二〇〇〇
開戦経緯 龍鷹軍団は戸次川の戦いで銀杏軍団主力を撃破。鶴賀城を落として大分平野に雪崩れ込んだ。一方、銀杏軍団も必死に兵をまとめつつ、府内城へ撤退していた。
戦闘経緯 龍鷹軍団本隊が大分川に到達する中、佐伯城を落としていた鹿屋利孝はその降伏兵を道案内にして佐賀関半島を落とし、さらに大分平野東部を蹂躙した。そのような状況を受け、冬峯律は平城の府内城では支えきれないと判断し、詰めの城である高崎山城への撤退を決意。戸次川の戦いで敗北した主力軍の一部をまとめて撤退する。そして、龍鷹軍団は空城となった府内城を占領した。
戦争への影響 龍鷹軍団は銀杏軍団の主力軍を野戦決戦で撃破したが、高崎山城へまとまった敵兵が撤退することを防げなかった。豊後南部への治安維持兵を残しつつも七〇〇〇の戦力を持って高崎山城を攻める方法もあったが、立て籠もる敵は三〇〇〇である。これを落とすのは難しいと判断し、講和を持ちかけた。

龍鷹目次へ