開戦経緯 |
肥後に侵攻した虎熊軍団は熊本城を攻めつつ、主力軍は南下した。砂川の戦いで龍鷹-聖炎軍団を撃破したが、それらが八代城で抵抗している間に龍鷹軍団が奮闘。肥後で銀杏軍団を粉砕し、九州西方の海では虎熊水軍を殲滅した。後顧の憂いをなくした龍鷹軍団本体が北上すると、敵地深くでの後詰め決戦は不利と見た虎熊軍団は八代城から撤退した。しかし、龍鷹軍団の目的は熊本城の解放であり、両軍はついに浜戸川で向かい合った。
決戦を翌日に控えた夕方、鷹郷忠流は川の中州で敵将・虎嶼晴胤との面会を望み、両者の話し合いが行われた。その終わりに忠流は<龍鷹>を晴胤に向けて放ち、それを合図に龍鷹軍団は初手から総攻撃に出た。晴胤は命に別状はない者の衝撃で昏倒し、忠流も神装解放の影響で気絶する。
異例の夕方からの戦いは両軍とも総大将不在という非常事態で始まった。 |
戦闘経緯 |
龍鷹軍団は忠流の代わりに鳴海直武が全指揮権を継承したが、虎熊軍団は各部隊が独自対応に迫られた。次席指揮官である白石長久も猛攻に出た絢瀬勢、名島勢の対処に忙しく、中央も先鋒の小瀬晴興と長井・武藤勢が激しく衝突した。一方で、明確な指揮官のいない筑前衆の動揺が激しく、虎熊軍団の左翼は龍鷹軍団の右翼(佐久・鹿屋勢)に押され出す。しかし、筑前衆と共に戦う国松勢が踏ん張り、どうにか開戦直後の全面崩壊を押しとどめた。
戦闘開始から一刻ほどで崩壊の兆しがやはり虎熊軍団左翼から起きた。それは武藤勢の鉄砲隊の横撃を受けた国松勢の動揺を衝いた、戦乱波活動による国松貞鑑の討死、鹿屋勢による筑前衆撃破。さらに小瀬勢を押しのけ、中央は指揮官のいない晴胤直卒部隊との戦闘を開始。
この中、ようやく晴胤が虎熊軍団本陣で目を覚ました。そして、見事な手腕で部隊をまとめ上げ、徹底抗戦に移行しようとした矢先、龍鷹軍団の退き太鼓と”鈴の音”が戦場に響き渡った。 |
戦争への影響 |
両総大将の不在、という状況を作り出した忠流の戦略勝ち。龍鷹軍団は鳴海直武が指揮を執るも虎熊軍団にその役割を持った者はいなかった。故に開戦直後から孤軍奮闘する各虎熊軍団の部隊を龍鷹軍団は機動的に削り取る。この開戦時の優位は戦略家である忠流が引き寄せた者である。
このような不利な状況から虎嶼晴胤はどう挽回するのか、それは彼の戦術眼にかかっていた。 |