戦 闘 記 録

砂川の戦い
高城川の戦い(開戦前夜戦闘前半戦闘後半
甑島沖海戦
浜戸川の戦い(開戦時退き太鼓

砂川の戦い
戦争 肥後戦役
(龍鷹・聖炎vs虎熊)
年月日 鵬雲五年四月一日
場所 肥後国益城郡砂川
(現熊本県宇城市)
結果 虎熊軍団の勝利
指揮官
名島景綱
長井衛勝
佐久頼政(生死不明)
村林信茂
長井友勝(討死)
虎嶼晴胤
白石長久
国松貞鑑
小瀬晴興
岡本幸康(討死)
兵数
九〇〇〇 三万四〇〇〇
開戦経緯 大軍を用いて肥後へ侵攻した虎熊軍団は、まずは熊本城に攻め寄せた。これに対し、火雲珠希は籠城戦で応え、両軍は激しい攻防戦を展開する。攻めあぐねた虎熊軍団はさらに南進し、堅城・宇土城を一夜にして陥れてさらに南下した。
一方、龍鷹軍団と聖炎軍団の連合軍は龍鷹軍団本体の到着を待たずに北上。その途上で虎熊軍団と遭遇戦に入った。
戦闘経緯 猛然と攻めかかる岡本勢の鋭鋒を逸らし、長井衛勝によって岡本幸康が討たれた。これに動揺した虎熊軍団だったが、後方から迂回して進出してきた国松勢によって横撃される。結果的に続く大軍に押し切られる形で戦線が崩壊。連合軍は潰走状態となり、八代城へと逃げ帰るしかなかった。特に龍鷹軍団は佐久頼政が行方不明、村林信茂が重傷を負って敗北した。
戦争への影響 虎熊軍団は熊本城への後詰めを阻止し、敵戦力の各個撃破に成功した。そして、さらに南下して八代城を包囲。龍鷹軍団に対し、後詰め決戦を強要できるまで優位に立った。


高城川の戦い~開戦前夜~
戦争 肥後戦役(龍鷹vs銀杏)
年月日 鵬雲五年四月十二日
場所 日向国児湯郡高城川
(現宮崎県児湯郡木城町)
結果
指揮官
高城・香月高知
①絢瀬晴政
②寺島春久
③楠瀬正成
④鹿屋利孝
①梅津正典
②冬峯利春
③須藤利輝
④冬峯刈胤
⑤田中勝幸
⑥神前持豊
⑦大塩佳通
⑧小室真茂
⑨江口久延
兵数
一万一五〇〇 二万三〇〇〇
開戦経緯 肥後に侵攻した虎熊軍団に呼応した豊後・銀杏軍団は日向の神前氏、小室氏を従えて日向国南部へ侵攻した。迎え撃つ龍鷹侯国方は高城・香月氏。香月氏は高城での籠城を選び、両軍は高城で激突した。
戦闘経緯 高城は小城ながらも頑強に抵抗し、虎熊軍団への支援を目的とする銀杏軍団も攻め手が緩い。結果として攻防戦は長引き、龍鷹軍団の日向衆・大隅衆一万が後詰めに到着。この時、高城南方の根白坂を占拠していた日向衆を大隅衆が追い出すなどの混乱があった。その関係か、龍鷹軍団は根白坂に大隅衆、その東方に日向衆と分かれて布陣する。また、日向衆は大隅衆への抗議のためか、一部隊を大隅衆の全面に展開し、わざと先鋒を奪っていた。こうした不協和音を抱えたまま龍鷹軍団は高城川対岸に布陣する銀杏軍団と睨み合う。しかし、その兵力差は圧倒的だった。
戦争への影響 銀杏軍団は渡河して龍鷹軍団へ決戦を挑む主戦派とこのまま敵軍を誘引して虎熊軍団への義理を果たす派閥と分かれ、軍議でも意見が割れたまま平行線となる。加えて意思決定する銀杏軍団の長は遠く離れた後方にあることもあり、諸将は意見をまとめられずに翌日を迎えることとなる。
一方、龍鷹軍団もさしたる戦略があるわけではなく、それぞれが部隊をまとめて翌日を待った。


高城川の戦い~戦闘前半~
戦争 肥後戦役(龍鷹vs銀杏)
年月日 鵬雲五年四月十三日
場所 日向国児湯郡高城川
(現宮崎県児湯郡木城町)
結果
指揮官
高城・香月高知
①絢瀬晴政
②寺島春久
③楠瀬正成
④鹿屋利孝
①梅津正典
②冬峯利春
③須藤利輝
④冬峯刈胤
⑤田中勝幸
⑥神前持豊
⑦大塩佳通
⑧小室真茂
⑨江口久延
兵数
一万一五〇〇 二万三〇〇〇
開戦経緯 意見の分裂した銀杏軍団は現地の指揮官である梅津正典の許可を得ずに渡河攻撃に出ることを、冬峯利春、須藤利輝が計画した。
戦闘経緯 早朝に高城川を超えた須藤勢、利春勢は楠瀬正成へ襲いかかり、鎧袖一触して根白坂の大隅衆へと襲いかかった。その猛攻に龍鷹軍団左翼は防戦一方となる。その光景を見た銀杏軍団左翼および小室勢も勝ち馬に乗ろうと渡河を開始、目の前の軍勢へ攻撃を開始する。また、虎熊軍団からの増援である江口勢も積極的に攻撃に参加はしないまでも、所謂隙間を埋めるために渡河した。北岸に残ったのは梅津勢、刈胤勢だけで、刈胤勢はとりあえず、須藤・利春勢の背後を固めるため、高城南東部へ進出した。
示し合わせた全面攻勢ではなく、円居ごとの連携を欠いた攻勢は至る所に隙間を作った。だが、龍鷹軍団は目の前の軍勢と戦うのに必死でその隙間を利用できない。また、根白坂の地形を利用できる大隅衆と違い、日向衆はそれがなく、ジリジリと押されていた。そうすることで銀杏軍団左翼はほぼ全てが渡河して攻勢を継続する。そこで騎馬隊を編成して寺島勢を大きく開いた敵左翼後方に送り出した。寺島勢はほぼ無人となった敵陣を蹂躙し、南岸の敵を圧迫しつつ北岸に残った梅津勢を牽制した。
戦争への影響 戦況は銀杏軍団の優勢なれど、寺島勢の活躍で銀杏軍団予備の目が東方に向く。また、銀杏軍団の過半が深く龍鷹軍団に食い込んでおり、誰も目先の戦いに集中していた。これは戦場外から迫る脅威に対してひどく無防備となった。


高城川の戦い~戦闘後半~
戦争 肥後戦役(龍鷹vs銀杏)
年月日 鵬雲五年四月十三日
場所 日向国児湯郡高城川
(現宮崎県児湯郡木城町)
結果 龍鷹軍団の勝利
指揮官
高城・香月高知
①絢瀬晴政
②寺島春久
③楠瀬正成
④鹿屋利孝
⑤武藤統教・
鳴海直武
⑥瀧井信成・
藤川晴祟
⑦御武幸盛
⑧山野辺時通
⑨鷹郷忠流
①梅津正典(討死)
②冬峯利春(討死)
③須藤利輝(討死)
④冬峯刈胤(討死)
⑤田中勝幸(討死)
⑥神前持豊(潰走)
⑦大塩佳通(潰走)
⑧小室真茂(討死)
⑨江口久延(討死)
兵数
二万三五〇〇 二万三〇〇〇
開戦経緯 鷹郷忠流率いる龍鷹軍団主力一万二〇〇〇は透波狩りをしつつ高城へ急行した。それは日向・大隅衆が利用したものとは別の街道を使っていた。そして、その街道は戦場西方に通じており、銀杏軍団はその接近に全く気付かなかった。
戦闘経緯 龍鷹軍団主力は行軍陣形そのままに戦場へ突入した。先鋒・次鋒の武藤勢・鳴海勢は大きく開いた須藤・利春勢の後方を駆け抜けて敵左翼へ横撃、田中勢を粉砕し、江口勢も高城川に突き落として壊滅させた。三鋒以降の瀧井、藤川は須藤・利春勢の背後を突き、大隅衆と挟み撃ちにして殲滅。これに小勢の小室勢も巻き込まれて主な部将は討ち死にした。高城南方でも御武勢が刈胤勢を攻撃。刈胤勢はうまく対応するも身動きが取れず、それを助けようとした梅津勢は迂回してきた山野辺勢の奇襲を受ける。それを見た刈胤勢も崩れて壊滅。梅津勢は戦場を離脱するために高城川北岸に渡河して退路を塞いでいた鳴海勢へ突撃。死にものぐるいの突撃で退路をこじ開けたが、逃げる軍勢の中に主将の梅津正典の姿はなかった。
戦争への影響 龍鷹軍団は容赦なく追撃を敢行し、都濃にいた銀杏軍団本隊も撤退時に壊滅。耳川までに多くの兵が討たれ、銀杏軍団は壊滅した。龍鷹軍団は延岡まで至り、豪族・神前氏は降伏した(当主・持豊は撤退戦で戦死)。それは日向戦線の消滅を意味しており、龍鷹軍団はほぼ全ての戦力を肥後戦線へ投入することが可能となった。


甑島沖海戦
戦争 肥後戦役(龍鷹vs虎熊)
年月日 鵬雲五年四月二二日
場所 薩摩国甑島北北東海域
(現鹿児島県薩摩川内市)
結果 龍鷹軍団の勝利
指揮官
東郷秀家(討死)
鷹郷勝流
藤田正光(討死)
永田玄次(討死)
兵数
戦列艦 二
安宅船 五
関船 一四
小早 六〇
大安宅 〇+一二
安宅船 八+八
関船 二〇+二〇
小早 六七+五〇
開戦経緯 虎熊水軍により龍鷹海軍第二艦隊が撃破され、虎熊軍団が阿久根に上陸した。しかし、鷹郷忠流は制圧部隊を送らず、虎熊軍団もそれ以上動かずに陸は膠着状態になった。忠流は無理に兵を分けずに処理を海軍に任せたのだ。龍鷹海軍第一艦隊は新戦力である戦列艦とその艦が持つ西洋砲・デミカノン砲を持って虎熊水軍に戦いを挑んだ。
戦闘経緯 甑島に停泊した龍鷹海軍は阿久根に向かう船団発見を受けて出撃。しかし、これは輸送船団であり、敵主力ではなかった。敵輸送船団の針路から天草諸島南方に根拠地があることを見抜いた海軍は北上、虎熊水軍の根拠地を落とした。しかし、そこはもぬけの殻であり、虎熊水軍はすでに出港していた。彼らは龍鷹海軍とは別の針路で甑島へ向かい、艦砲射撃で根拠地を破壊する。それを狼煙で知った龍鷹海軍は帰路で決戦を挑み、これを散々に打ち破った。
そこに現れた虎熊水軍本隊を相手に龍鷹海軍は戦闘を続行。戦列艦二隻と大安宅一二隻の熾烈な戦闘の結果、虎熊水軍はほぼ全滅するも、龍鷹海軍も多数の艦艇を失い、戦列艦二隻とも大破する。そして、さらには海軍卿である東郷秀家も戦死した。
戦争への影響 虎熊水軍が壊滅したため、薩摩西方の制海権を失った虎熊軍団は阿久根にいた戦力は完全に遊兵となり、ほどなくして降伏した。さらに龍鷹海軍は肥後西方の制海権を握ることで、虎熊軍団本隊の後方への海上機動戦が可能となった。だがしかし、内乱で多数の経験豊富な司令官を失っていた龍鷹海軍にとって、東郷秀家の戦死は大きい。また、主力である第一艦隊も大きく傷ついたため、大胆な行動はできなくなった。よって、両者主力の戦いは純粋な陸上戦へ移っていく。


浜戸川の戦い(開戦時
戦争 肥後戦役(龍鷹vs虎熊)
年月日 鵬雲五年四月二八日
場所 肥後国浜戸川
(現熊本県宇土市)
結果 龍鷹軍団の勝利
指揮官
鷹郷忠流・鳴海直武①
長井衛勝②
武藤統教③
瀧井信成④
鳴海盛武⑤
薩摩衆⑥
佐久仲綱⑦
鹿屋利孝⑧
絢瀬晴政⑨
名島景綱⑩
虎嶼晴胤①
白石長久②
小瀬晴興③
国松貞鑑④
(討死)
筑前衆⑤
後備⑥
兵数
二万七〇〇〇 三万一〇〇〇
開戦経緯 肥後に侵攻した虎熊軍団は熊本城を攻めつつ、主力軍は南下した。砂川の戦いで龍鷹-聖炎軍団を撃破したが、それらが八代城で抵抗している間に龍鷹軍団が奮闘。肥後で銀杏軍団を粉砕し、九州西方の海では虎熊水軍を殲滅した。後顧の憂いをなくした龍鷹軍団本体が北上すると、敵地深くでの後詰め決戦は不利と見た虎熊軍団は八代城から撤退した。しかし、龍鷹軍団の目的は熊本城の解放であり、両軍はついに浜戸川で向かい合った。
決戦を翌日に控えた夕方、鷹郷忠流は川の中州で敵将・虎嶼晴胤との面会を望み、両者の話し合いが行われた。その終わりに忠流は<龍鷹>を晴胤に向けて放ち、それを合図に龍鷹軍団は初手から総攻撃に出た。晴胤は命に別状はない者の衝撃で昏倒し、忠流も神装解放の影響で気絶する。
異例の夕方からの戦いは両軍とも総大将不在という非常事態で始まった。
戦闘経緯 龍鷹軍団は忠流の代わりに鳴海直武が全指揮権を継承したが、虎熊軍団は各部隊が独自対応に迫られた。次席指揮官である白石長久も猛攻に出た絢瀬勢、名島勢の対処に忙しく、中央も先鋒の小瀬晴興と長井・武藤勢が激しく衝突した。一方で、明確な指揮官のいない筑前衆の動揺が激しく、虎熊軍団の左翼は龍鷹軍団の右翼(佐久・鹿屋勢)に押され出す。しかし、筑前衆と共に戦う国松勢が踏ん張り、どうにか開戦直後の全面崩壊を押しとどめた。
戦闘開始から一刻ほどで崩壊の兆しがやはり虎熊軍団左翼から起きた。それは武藤勢の鉄砲隊の横撃を受けた国松勢の動揺を衝いた、戦乱波活動による国松貞鑑の討死、鹿屋勢による筑前衆撃破。さらに小瀬勢を押しのけ、中央は指揮官のいない晴胤直卒部隊との戦闘を開始。
この中、ようやく晴胤が虎熊軍団本陣で目を覚ました。そして、見事な手腕で部隊をまとめ上げ、徹底抗戦に移行しようとした矢先、龍鷹軍団の退き太鼓と”鈴の音”が戦場に響き渡った。
戦争への影響 両総大将の不在、という状況を作り出した忠流の戦略勝ち。龍鷹軍団は鳴海直武が指揮を執るも虎熊軍団にその役割を持った者はいなかった。故に開戦直後から孤軍奮闘する各虎熊軍団の部隊を龍鷹軍団は機動的に削り取る。この開戦時の優位は戦略家である忠流が引き寄せた者である。
このような不利な状況から虎嶼晴胤はどう挽回するのか、それは彼の戦術眼にかかっていた。


浜戸川の戦い(退き太鼓
戦争 肥後戦役(龍鷹vs虎熊)
年月日 鵬雲五年四月二八日
場所 肥後国浜戸川
(現熊本県宇土市)
結果 龍鷹軍団の勝利
指揮官
鷹郷忠流・鳴海直武①
長井衛勝②
武藤統教③
瀧井信成④
鳴海盛武⑤
薩摩衆⑥
佐久仲綱⑦
鹿屋利孝⑧
絢瀬晴政⑨
名島景綱⑩
虎嶼晴胤①
白石長久②
小瀬晴興③
国松貞鑑④
(討死)
筑前衆⑤
後備⑥
兵数
二万七〇〇〇 三万一〇〇〇
開戦経緯 中州での会談後に放たれ≪龍鷹≫の一撃から始まった龍鷹軍団の猛攻は虎熊軍団左翼を壊滅させ、龍鷹軍団右翼は追撃せずに虎熊軍団本隊に対して圧迫を開始。結果、龍鷹軍団は虎熊軍団の片翼包囲に成功する。そんな中、虎熊軍団では総大将・虎嶼晴胤が目覚め、陣頭指揮を執って軍団の指揮系統を回復させた。「さあ、これからだ」と意気込む虎熊軍団を前に龍鷹軍団退き太鼓が響き渡る。だが、それを許さじと”鈴の音”も響き出した。
戦闘経緯 ”鈴の音”によって正気を失い、今抱える感情が増幅された両軍の兵は対照的な態度を示した。勝っている中で攻撃を止められた龍鷹軍団は攻撃への欲求が増幅され、劣勢の中でなんとか命を拾った虎熊軍団の生き残ることへの欲求が増幅される。その結果、龍鷹軍団は攻勢に出て、虎熊軍団はそれを支えきれずに逃亡を開始。虎嶼晴胤は抵抗を示すも馬廻衆に運ばれて戦線を離脱した。
戦争への影響 主力決戦は龍鷹軍団の勝利となったが、虎熊軍団は大打撃を受けつつも熊本への撤退を成功させる。そして、熊本城を包囲していた味方と合流した。龍鷹軍団も聖炎軍団と合流し、両軍は熊本を舞台に睨み合いとなる。しかし、虎熊軍団は持久態勢を整えつつも翌朝には突如撤退した。
こうして南北の雄が激突した肥後戦線は終結した。だが、会戦が行われるも決定打とならず、両国の決着は持ち越しとなった。

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